若者殺しの時代 (講談社現代新書) 堀井憲一郎著

 てっきり90年代に若者の新しい生き方としてのフリーターの地位に納まり、現在高齢低賃金労働者として産業界に都合のいい奴隷として活躍されている可哀相な30年代前半のお話かと思ったら、だいぶ違った。
 内容的には第1章の「一杯のかけそば」の話と第2章の「クリスマス」のお話だけ読めばお腹いっぱい。日本でクリスマスが恋人たちのイベントになったのはずいぶん最近であることに驚かされた。
 

愛国者は信用できるか−鈴木邦男−

愛国者は信用できるか (講談社現代新書)
 非常にいい書物だ。40年以上右翼をやってきた人物だけに重みがある。
 ネットに巣食う嫌中厨、嫌韓厨、むやみに敵地攻撃を叫ぶ連中が軽薄なのは言わずもがなだが、国民への愛国心の強要に躍起になる小役人。過激な見出しを並べれば雑誌が売れると薄っぺらな暴論を並び立てる保守雑誌の編集者。すべてが下らなく見える。
 元と言えば、愛国心をタブー化してしまった左翼が悪いのかも知れないが、今の日本で語られる愛国心は余りにも熟成していない。醜い愛国心が暴走している点では、日本も中国や韓国と大差ない状況である。彼のような人物が愛国心を語る意味は非常に大きい。
 ただ識者であっても、愛国心というものを語れないのが現状なのであろう。保守派知識人の多くも、自説が軽薄なネットウヨ連中に読まれているのを喜んでいる程度の体たらくで、真の保守主義を次世代に伝えようという意欲もなければ、間違った愛国心が暴走していることへの危機感がない人が多い。
 彼の言うように、もう一度「家族愛」や「郷土愛」といった手の届くところから再構築していくのがこの国には大事なのではないか。小学校ではそういうことをまず教えたほうがいいと思う。

「分かりやすさ」の罠―アイロニカルな批評宣言 (ちくま新書)

 小泉政治に辟易し、思考停止状態で小泉政治への親和性を強める若者に危機感を抱いている私が、こういう書物に惹かれるのは宿命であったが、少し甘かった。
 特に80年代以前に左翼経験が在り、昨年の小泉自民党圧勝に危機感を抱いた識者にはカウンターパンチのような本であろう。もちろん仲正昌樹氏へのバイアスがあれば別だが、こういう本はバイアス抜きにカウンターパンチを浴びた方がいい。
 私も「判りやすさを求める人」=アホという簡単な図式を抱いていたが、そういう自身もそういう判りやすさを求めていたアホであると大いに反省させらてた。たまたま小泉政治がタイムリーなだけで、そもそもマルクスも判りやすい二項対立に立脚している訳で、更にその起源はプラトンまで遡ると著者は述べているが、この問題は思想そのものの普遍的テーマであり、その脱却には相当の理知が必要であるのは確かであろう。
 まあ「判りやすさを求める人」というのは一種のスノビズムでまだまともな存在なのかも知れない。世の中には判らない状態を放置しても平気な人、或いは判ろうとすることを諦めている人の方が多い。私だって、どうして飛行機が飛ぶのか正しくは理解していないが、正しく理解することを既に諦め、そのくせ平気な顔をして飛行機に乗っているので、その一味とも言える。
 世の中には難しい説明を排除して、単純化してわかりにくいものを判りやすく説明するのが上手な人もいる。例えば田原総一郎みのもんたみたいな……。現状、判ることを諦めた人が多数の世の中にあっては、多少インチキでも「判る」経験を人々に与えてくれる人を無碍にしてはいけないのかも知れない。

ルート66をゆく―アメリカの「保守」を訪ねて

ルート66をゆく―アメリカの「保守」を訪ねて (新潮新書)

ルート66をゆく―アメリカの「保守」を訪ねて (新潮新書)

 雪のため飛行機の出発が40分遅れ、千歳空港と機内で読んだ本。
紀行文的なフィールドワーク。軽く読めるが内容はけっこう確りしている。
 現代日本の保守化との類似性と差異が理解できる。アメリカでは宗教や家族の絆の重視といった社会的価値観が選挙の対立軸になっている。この辺は日本も何となく後追いしている気もする。ポスト小泉争いや次の参院選辺りでは経済政策より内面の問題がクローズアップされてくるような気配を感じる。
 圧倒的に異なるのが「小さな政府」に対する考え方か?日本のそれは財政再建論の手段として矮小化されて認知されているに過ぎず、アメリカのように「政府の関与は小さいほどいい」といった思想はない。日本の新自由主義は形だけの真似事に過ぎない。

魂の労働

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

 著者の渋谷望氏は映画や音楽に造詣が深く、この著作の後半で、それらの知識を織り込みながらネオリベラリズムについて切り込んでいるので面白い。

 製造業の仕事が消失し、代わって創出された雇用は低賃金の「サービス労働」である。店員、守衛、メイド、データ処理、セキュリティ・ガード、ウェイトレス、料理人等、その多くは不安定なパートタームであり、社会保障も僅かしかない。
(1997 ロビン・ケリー)

金銭的にも心理的にもやりがいのある賃金労働の機会が減ってゆく脱工業経済において、アートとパフォーマンス−必ずしも労働とみなされない労働形態−は、仕事がなかったり、低賃金のサービス労働に代わる選択肢として徐々に可視化されるようになる。

彼らはメディアによって「労働意欲」や「労働倫理」を欠いた無気力な怠け者のレッテルを貼られるが、この表象は「勤勉」が従来の賃金労働への従事を意味しているときだけ成立する。実際、進取の精神も労働倫理もインナーシティの多くの若者に欠いていない。
 映画『ジュース』で黙々とDJスキルを磨く「勤勉な」主人公の姿を想像して欲しい。

 1997年のアメリカのインナーシティの若者についての研究を引用している。日本とアメリカの文化の差はあれ、現在の日本の問題に酷似している。
 この頃日本はまだ新自由主義やニューエコノミーが特効薬のように謳われ、規制緩和による社会のサービス化が叫ばれていた。有識者や政治家は社会のサービス化が労働者の低賃金化とパラレルであるか知っていて知らぬフリをしていたのである。そしてマスコミは正社員をパートに置き換える経営者を経営力のある経営者として持ち上げたなどである。
 知っていても、この頃はニューエコノミーの胡散臭さを批判する人間は、規制緩和に反対するオールドエコノミーと同一視され、守旧派のレッテルを貼られたのである。
 日本は今、一周遅れの新自由主義コースを走っているが、アメリカやイギリスで起きた様々な弊害はあまり紹介されない。そしてそれを口にする人に守旧派のレッテルを貼る雰囲気もまだ収まっていない。くだらないレッテル貼りを止めないと、若者に続きまた犠牲者を生むことになる。既に次の犠牲者は決まっているのであるが。
 そして政府はいまだに子供騙しの「ニート」「フリーター」「待ち組」のような話をしている。はっきり「われわれは経済界の利益と景気回復を優先する。犠牲者が出るのは仕方ない」と本当のことを言うべきでないか?中国の先富論みたいなもので、先に企業の利益が回復して、その後労働者の待遇を良くしましょうという意見も、我慢強い日本人には意外と受け入れられるたりする。
 

「かわいい」論

「かわいい」論 (ちくま新書)

「かわいい」論 (ちくま新書)

 出たての本をチェック。
著者も言っているが、九鬼周造の「いきの構造」のような日本独自の美的範疇へのアプローチを試みる手法を模倣しているのだが、範疇が特定できなくて途中で断念している。
 アメリカで「CUTISM」という学問ができて研究対象になっているくらいなので、簡単に答えのでる対象ではなさそうだ。学生へのアンケートが雑誌の考察など、独自の研究を行っており、研究の導入として注目に値する著作だと思う。 
 それにしても「かわいい」という概念の普遍化は凄まじい。上野千鶴子が「かわいい」は女性の男性への「媚態」だと敵視する考えを示していたのが、まったく無力化している。

安心のファシズム(斎藤貴男著)

安心のファシズム―支配されたがる人びと (岩波新書)

安心のファシズム―支配されたがる人びと (岩波新書)

 私は1年ぐらい前に「生活安全主義」というエントリーを書いたが、様々な崇高なる理念を吹き飛ばし、まず何より市民が安全を求めているのが現状だ。
 著者は「携帯電話」や「自動改札」「ネット家電」までも監視装置として警鐘を鳴らしているが、著者の主張はもう手遅れである。私もこれらの監視装置に何ら警戒の念を持っていないし、社会の危険性除去に対する一定の理解も持っているからである。
 ただいくつか気になる指摘があった。立正大学小宮信夫氏の指摘「事件が起こると、マスコミもこぞって犯罪者の動機の解明をしようとします。でも『そんなものは分かるわけない」というのが欧米の常識なのです。』である。確かにはアメリカでは*1犯罪の原因を究明し原因を取り除こうという努力を既に諦め、監視の強化や貧困層やマイノリティーといった犯罪発生率の高い層と富裕層の棲み分けにより犯罪に遭い辛くする方法と、徹底的な犯罪捜査と厳罰化といった対処療法に移行してしまっている。
 既に日本でもこのような言論が目立ってきており、近年の犯罪の不可解さから、犯罪発生のメカニズム等どうでもよく、単に犯罪者を厳罰に処してくれればそれでいいと考えている輩が少なくない。
 ニューヨークのジュリアーニが治安回復を掲げてニューヨーク市長に当選し、治安回復に成果を挙げたには記憶に新しい。ジュリアーニの「ゼロ・トレランス」=寛容ゼロという考え方がアメリカで支持を拡げている。日本でも保守系論壇で議論され始め、賞賛する意見も散見されるが、まず日本が根本治療を諦め対処療法に移行していいのか議論すべきである。
 奇しくも、経済の世界ではこれまでの補助金ばら撒き的な対処療法は止め、構造改革をしようという時期に、社会問題で構造改革を諦め対処療法に移行しようというのは滑稽である。私は日本はあくまでも犯罪に対しても根気よく原因根絶の努力をはかるべきで、安易に対処療法に移行してはならないと思う。
 そもそもこれらの対処療法は新自由主義と表裏一体の関係にある。新自由主義はその予想される副作用である格差拡大と治安悪化に対応するため、予め治安対策に関する対処療法がセットになっているのである。そのため経済的には自由を求めながら、社会的には規制や監視を強化するという従来のリバタリアニズムとは異質なチグハグなイデオロギー*2ができあがったのである。
 この思想は最初から治安対策の根本治療を諦めているアメリカ産の思想であることを忘れてはいけない。

*1:ヨーロッパではまだそこまでは達観していないと思われるが

*2:日本ではこのチグハグなものが保守思想として普通に受け入れられている節もあるが…