安心のファシズム(斎藤貴男著)
- 作者: 斎藤貴男
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2004/07/21
- メディア: 新書
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著者は「携帯電話」や「自動改札」「ネット家電」までも監視装置として警鐘を鳴らしているが、著者の主張はもう手遅れである。私もこれらの監視装置に何ら警戒の念を持っていないし、社会の危険性除去に対する一定の理解も持っているからである。
ただいくつか気になる指摘があった。立正大学の小宮信夫氏の指摘「事件が起こると、マスコミもこぞって犯罪者の動機の解明をしようとします。でも『そんなものは分かるわけない」というのが欧米の常識なのです。』である。確かにはアメリカでは*1犯罪の原因を究明し原因を取り除こうという努力を既に諦め、監視の強化や貧困層やマイノリティーといった犯罪発生率の高い層と富裕層の棲み分けにより犯罪に遭い辛くする方法と、徹底的な犯罪捜査と厳罰化といった対処療法に移行してしまっている。
既に日本でもこのような言論が目立ってきており、近年の犯罪の不可解さから、犯罪発生のメカニズム等どうでもよく、単に犯罪者を厳罰に処してくれればそれでいいと考えている輩が少なくない。
ニューヨークのジュリアーニが治安回復を掲げてニューヨーク市長に当選し、治安回復に成果を挙げたには記憶に新しい。ジュリアーニの「ゼロ・トレランス」=寛容ゼロという考え方がアメリカで支持を拡げている。日本でも保守系論壇で議論され始め、賞賛する意見も散見されるが、まず日本が根本治療を諦め対処療法に移行していいのか議論すべきである。
奇しくも、経済の世界ではこれまでの補助金ばら撒き的な対処療法は止め、構造改革をしようという時期に、社会問題で構造改革を諦め対処療法に移行しようというのは滑稽である。私は日本はあくまでも犯罪に対しても根気よく原因根絶の努力をはかるべきで、安易に対処療法に移行してはならないと思う。
そもそもこれらの対処療法は新自由主義と表裏一体の関係にある。新自由主義はその予想される副作用である格差拡大と治安悪化に対応するため、予め治安対策に関する対処療法がセットになっているのである。そのため経済的には自由を求めながら、社会的には規制や監視を強化するという従来のリバタリアニズムとは異質なチグハグなイデオロギー*2ができあがったのである。
この思想は最初から治安対策の根本治療を諦めているアメリカ産の思想であることを忘れてはいけない。