「分かりやすさ」の罠―アイロニカルな批評宣言 (ちくま新書)

 小泉政治に辟易し、思考停止状態で小泉政治への親和性を強める若者に危機感を抱いている私が、こういう書物に惹かれるのは宿命であったが、少し甘かった。
 特に80年代以前に左翼経験が在り、昨年の小泉自民党圧勝に危機感を抱いた識者にはカウンターパンチのような本であろう。もちろん仲正昌樹氏へのバイアスがあれば別だが、こういう本はバイアス抜きにカウンターパンチを浴びた方がいい。
 私も「判りやすさを求める人」=アホという簡単な図式を抱いていたが、そういう自身もそういう判りやすさを求めていたアホであると大いに反省させらてた。たまたま小泉政治がタイムリーなだけで、そもそもマルクスも判りやすい二項対立に立脚している訳で、更にその起源はプラトンまで遡ると著者は述べているが、この問題は思想そのものの普遍的テーマであり、その脱却には相当の理知が必要であるのは確かであろう。
 まあ「判りやすさを求める人」というのは一種のスノビズムでまだまともな存在なのかも知れない。世の中には判らない状態を放置しても平気な人、或いは判ろうとすることを諦めている人の方が多い。私だって、どうして飛行機が飛ぶのか正しくは理解していないが、正しく理解することを既に諦め、そのくせ平気な顔をして飛行機に乗っているので、その一味とも言える。
 世の中には難しい説明を排除して、単純化してわかりにくいものを判りやすく説明するのが上手な人もいる。例えば田原総一郎みのもんたみたいな……。現状、判ることを諦めた人が多数の世の中にあっては、多少インチキでも「判る」経験を人々に与えてくれる人を無碍にしてはいけないのかも知れない。