ネットウヨに関する激しい違和感

 私もエントリーの多くをネットウヨ批判に費やしてしまっている昨今であるが、富田メモ報道以後の右派系ブロガーの言説は常道を逸しているものが多く、批判する以前に危機感さえ感じる。もはや彼らは右翼ではないのではないかとさえ思う。
 ブログでは常に政治的なエントリーを中心として自説を唱える人もあれば、たまに政治的なエントリーを入れ、日本の外交姿勢の評価や北朝鮮、韓国、中国の批判、朝日新聞の批判などに言及する人もいる。後者のエントリーの特徴として、プロフィールが自虐的なものが多いのが特徴である。「へタレです」「引きこもりです」「35歳独身のヲタ」「思ったままダラダラと書いてます」とか書いてあると、そのエントリーに反論する気もなくなる。政治以外のテーマを見ると、ゲームやモー娘、サッカーといった普通のブログのエントリーが並ぶ。
 こういうごく普通の人たちが、政治的に過激な言説を繰り返すのは激しい違和感を禁じえない。富田メモ以降のエントリーの中には、「過去の人間」と昭和天皇さえ断罪してしまったり、富田朝彦を批判したり。おいおい、引きこもりのヲタクが警察官僚であさま山荘事件連合赤軍と戦った人間を売国奴呼ばわりする。どうなっているだこの国は。
 売国奴という言葉の使用頻度と知能や勇気は反比例すると言われるが、全くその通りだ。
 それにごく普通のブロガーがなぜそこまでA級戦犯靖国神社に肩入れするのは全く不明*1。私は好きではないが、石原慎太郎都知事の方がまだまともなことを言っている。

東京都の石原慎太郎知事は21日の会見で、靖国神社A級戦犯合祀に昭和天皇が不快感を示していたことを示す資料が見つかったことについて、「そのお気持ちはよく分かりますね」と語った。自身が今年も靖国神社を参拝することを明言し、「私が戦争の責任者と思っているA級戦犯について祈るつもりは毛頭ない」と語った。
 石原知事はA級戦犯について「占領軍が勝手に決めたもので、気の毒な立場の人もいるし、明らかに戦争の責任者もいる」と指摘。戦勝国による東京裁判を「一方的に勝者が敗者を裁く裁判に正当性はないと思う。日本人自身が裁くべきだった」と批判する一方、「裁判に正当性がないと言っても、断罪された人たちに罪がないというのはおかしい」と話した。
 石原知事は就任2年目の00年から毎年、8月15日の終戦記念日靖国神社を参拝している。
(毎日新聞) - 7月21日

 石原慎太郎東條英機に批判的なことで知られるが、東京裁判すべてを否定しA級戦犯を総じて英雄視するようなアフォウヨより遥かに自身の歴史的価値観を持っている。

最近のネット言論はアジア型左翼に使い

 私も便宜的にネットウヨという言葉を使うが、実際は天皇など重視しておらず、韓国・中国憎しといった攘夷的ナショナリズムのみ突出する意見はウヨではないのではと思いたくなる。むしろアジア的左翼に近い。
 日本以外のアジアで、右派と言えば植民地時代に支配者に迎合した封建領主、地主や小資本家といったエスタブリッシュメントを基盤としている場合が多く。植民地からの独立には共産主義の影響の有無は国により差があるものの、無産階級と、民族主義が結びついた勢力によって担われたケースが多い。左翼の方がナショナリズムを強調するのが常識である。
 韓国のケースがわかりやすい。70年代以前の軍事政権は日本軍の下士官であった連中が多く、当時の財閥も植民地時代に日本に協力した人間が多い。ところが民主化運動の中で、これらの人間が批判の対象となり、現在では民主化運動を担った人間が政権の中枢にある。彼らを386世代というらしいが、古い慣習からの開放といった点で左翼ではあるが、強烈なナショナリストであることが多い。
 最近の攘夷的ナショナリズムを強調するブロガーも天皇や伝統的慣習や倫理・規範といったものは重視していない人間が多い。そういう意味では右翼でなく韓国の386世代に近い排他左翼ではと思ってしまうことがある。

*1:恐らく韓国や中国が批判するものに反射的に支持しているだけでしょうけど…。特に深い思考なしに。