労働組合の罪

 バブル崩壊後、多くの企業は過剰な経営資源を抱え、事業の再構築いわゆるリストラを迫られていた。
 当時の日本の企業のリストラ策は人員削減に傾斜しており、まるでリストラ=首切りであるかのような言葉の誤用がまかり通っていた。
 労使協調路線が根付いていた労働界では、概ね経営側のリストラ策には協力する姿勢を見せたが、この時の妥協の仕方が問題であった。労組は現組合員の雇用と生活水準の維持を優先し、経営側に採用抑制による自然減による人件費削減策を求めたのである。経営側は本来、団塊の世代が管理職層を占め頭でっかちになった組織のスリム化を望んでおり、中高年層の早期退職を優先したい考えであったが、労使協調の中でそこまでは求めなかった。
 また多くの企業で賃金水準の見直しを行ったが、既存社員の賃金水準を大幅に下げることはできるだけ避け、これから昇給する際の昇給幅を押さえ、将来の賃金を抑制するという方針を採り、組合の反発を最小限に抑えるようにした。
 それでも過剰な人員を抱えた企業は希望退職を行った。
 こうやって90年代後半には業績を回復させ、逆に人員不足に陥る企業も生じたが、直前に希望退職を実施した企業では、すぐに新卒を採用すると、「高齢社員を追い出し新卒に置き換えて賃金単価を下げる目的だったのではないか」という労組側の不信を買う恐れを気にして、すぐには新卒採用再開に踏み切れなかった企業も多い。
 労働組合は結局、現在の構成員の声しか集約されない。多くの若者が新卒抑制の影響を受け就職できないでいようが関係ないことなのだ。新入社員が入らないために、入社何年経っても補助的な仕事を押し付けられ能力を発揮する機会に恵まれない若手社員にも不満が募る。
 では、労働側は何をすべきだったのであろうか。労働組合単体ははっきりいって愚衆民主主義の域を出ない。少なくともナショナルセンターである連合等がもっとマクロ的な労働施策の提言を明示すべきだった。また経営側には人員削減以外のリストラ策があることも強く主張し、雇用創出の提言が強く為されるべきであった。
 結果的に労働組合無為無策で、日本国内の単純労働者の賃金水準の引き下げられた。団塊世代ブルーカラーがリタイヤした頃には多くの単純労働者は一生年収500万円以下の生活を余儀なくされる日本がやってくるであろう。労働組合は組合員にすら信頼を失い、求心力のない組織はさらに発言力も低下させる悪循環に陥っている。
 しかし低賃金化された職場で相次ぐミスやモラルの低下。そのまま放置していていいのか。労働組合は今一度猛省をして信頼を取り戻す努力をすべきである。