天皇抜きのナショナリズム

石原慎太郎は好きではないが、それ故に敢えて彼が脚本を書いた「俺は、君のためにこそ死ににいく」という映画はぜひ見ようと思っている。イデオロギー性の有無はともかく、決死の戦いに挑んだ特攻隊員をどのように描いたかは興味がある。
しかし「君のために死ぬ」というタイトルは気になる。そもそも旧軍は国体護持のために存在し、国民を守るというのは副次的な任務で、現実には旧軍は日本国民を十分に守っていなかった。多くの隊員は公には「国のために死ぬ」と飛び立っていったのである。「愛するもののために死ぬ」という感情は極めて私的なものとされ、隊員の手記や手紙などにそのような記述を散見するぐらいで、当時としては本義ではないはずだ。
実際に特攻隊員がどのような気持ちで飛び立ったかなど、戦後生まれの我々が安易に想像するほど生やさしいものではないが、国を守ることと家族を守ることが一体化し揺るぎないものであった隊員もいれば、日本軍が決して国民を守っていないことを悟りながらも、自分はあくまでも愛する人を守るために戦うという個人的葛藤の中から答えを見出していた人もいよう。
最近公開された戦争映画の多くは、主人公が後者の解釈をしている場合が多い。軍隊という存在は決して美化せず、或いは軍隊の矛盾を批判的に描いた上で、「愛する人のために戦う」主人公に光を当てるのである。
私も「愛する人のために戦う主人公」への感情移入は否定しない。また多くの日本人にその感情がある限りにおいて、日本人がまだ戦うことが可能であるということを意味する。
その場合の戦いは、愛する人のため、またはその集合体である国民のためであって、決して天皇陛下のためでも体制としての国家のためではないであろう。この辺に今の若者の持つナショナリズムの性質を見出すことができる。
いわゆる「天皇抜きのナショナリズム」である。それは「愛する人のために戦う」というドラマで彩られたやや個人主義的なナショナリズムではないかろうか。
奇しくも卜部侍従日記の件では、富田メモの時はあれだけ騒いだ保守系ブロガー、2ちゃんねらーも静かである。彼らは天皇中心のナショナリズムを護持する旧世代の右派と袂を別ち、天皇抜きのナショナリズムに突き進む可能性がある。既に昭和天皇よりも所謂A級戦犯と呼ばれた旧軍指導者によりシンパシーを覚えている人が増えている気がする。