みのもんたがネットウヨの攻撃に晒されている

 最近みのもんたネットウヨの攻撃に晒されている。
 彼が、沖縄戦教科書記述問題で、沖縄県民の心情に理解を示し、検定を批判しているからだ。

 彼は小泉-安倍時代を通じて、世論が権力に共鳴する媒体の役割を果たし、常にサヨクの攻撃対象であったことを考えれば、特筆すべき出来事かも知れない。
 だが実はみのもんたは首尾一貫している*1のである。常に被害者感情を最大化するという立場を取る。むしろ保守・サヨク関係なく、あらゆる政治セクトは都合のいい時は被害者感情を利用し、都合が悪いと否定するダブスタを導入しているのである。
 20世紀までの日本の保守はハードボイルドであった。国民感情に流されず、現実的利益を直視していた。一方左派は扇情的で、国民感情を大いに利用した。80年代後半、私は人づてで共産党系の団体のイベントに参加する機会があったのだが、その扇情的な内容に吐き気がした。この当時の私は「現実を直視せよ!」という保守の方にシンパシーを抱き、クールな現実論で満たされていた保守論壇も結構好んで読んでいた。
 今世紀に入ってからであろう。保守派が急激に扇情的になった。拉致問題北朝鮮制裁や犯罪被害者問題と厳罰化、いろいろなテーマで保守派が被害者感情を利用するようになったのである。これは、左翼運動の経験のある保守転向者がサヨクの運動手法を保守運動に持ち込んだ結果であろう。保守陣営において扇情的手法は一気に広まり、日本の保守の体質を一変させてしまった。
 私が保守に嫌悪感を抱くようになったのは、保守が扇情化して以降のことである。私は「お涙頂戴保守主義」と勝手に呼んでいるが…。
 沖縄戦教科書検定問題において、保守論客や保守ブロガーの多くが「感情に左右されるな!」と唱えた。昔の保守主義者のように一般してハードボイルドであれば説得力があるが、持論に都合がいいときは被害者感情を利用して「被害者の声を聴け」と言い、別の時は「感情に左右されるな」と言うのは説得力がない。

*1:誰を加害者にし、誰を被害者にするかにおいて独断性を禁じえないが…