国民のマジョリティーは新自由主義でも社民主義でもない

 新自由主義社民主義かという議論は、正直空振りにあることが多い。なんやかんや、日本で常に支持されているベタな考えは「税金の無駄遣いをやめて、その分で社会保障を充実」という思想だからだ。これは55年体制時代から、現在まで何ら変わっていないということをこの頃痛感する。
 55年体制というのは、公共事業型「大きな政府」の自民党と、社会福祉型「大きな政府」の社会党という対立構造であった。社会党は既に大きな政府である現状で更に大きな政府にするための「増税」を謳うことはなく、基本的に「税金の使い道を変える」ことを主張し、政府の増税策に対しては常に反対する立場を取ってきた。これについては共産党の同様の立場であった。
 80年代末に、保守政治家の中から「税金の無駄遣いを止める」というような税金の使い道を変える議論が盛んに為されるようになった。その中で起きたのが自民党の分裂と新生党新党さきがけ日本新党の誕生である。自民党型の土建政治に疑問を持ち消極的に社会党を支持していた層の多くが、これらの新党に流れた。
 この時代に興隆した思想を「新自由主義」と認識し、その思想の理念を理解していた人は極めて少数であった。また新自由主義を理解し、その理念を実現していた政治家の多くが、新自由主義の「社会保障削減」「法人税減税」「フラット税制」といった出口部分の説明をほとんどせず、国民受けのいい「税金の無駄遣いをやめろ」という入り口部分を強調したため、新自由主義的理念に対し無防備に親和的になっていった。新自由主義と「税金の無駄遣いをやめて、その分で社会保障を充実」という思想は入り口部分を共有しているからである。私もそんな人間の一人であった。
 新自由主義の「痛み」の部分をきちんと口にしたのは、小泉が最初であったかも知れない。しかし、国民が本当に新自由主義の理念に共感して支持した国民はそれほど多くないと思う。当時、小泉メールマガジンを購読していた人は読み返すといい。基本的には「一時的に我慢しなさい。財政が好転すれば社会保障も充実させることができる。」というようなメッセージではなかったか?成功できなかった人には厳しい世の中が固定化するとまで多くの人は思っていなかった。
 その後、格差批判やIT起業家に対する品格批判などで新自由主義へのバックラッシュが起きるのであるが、国民の意識というのは、それ程かわっていない気がする。ただ剥き出しの新自由主義というのは国民に厳しいということを思い知らされただけだ。そもそも、55年体制下から、多くの国民は30年以上変わらず「税金の無駄遣いをやめて、その分で社会保障を充実してくれ」と思い続けているだけなのではないか?
 左派の一部は、これからは社民主義だといい、「税金の無駄遣いをやめろ」という主張ですら「新自由主義的だ」と批判する。私は社民主義も日本の未来の選択肢の一つだと認めるが、これは余りにも新自由主義に対する過剰アレルギーであり、今日的には完全に空気を読み間違えている気がする。多くの国民は「なんとか主義」といった定食メニューを持ち出されてもピンと来ないのである。しかも山口二郎氏のように「国民に社会保障の充実を明示し、そのために増税が不可避であることを国民に説明しろ」という高福祉高負担という剥き出しの社民主義を主張している。民主党左派のブレインである氏は民主党に対してそのような政策を取るべきだと主張している。

 これは完全にKYで、民主党を惨敗させて自公政権を永続させる工作かと疑いたくなる。
 民主党新自由主義に親和的な面もあるが、やはり国民受けするゾーンがここにあるという認識を心得ているのか「税金の無駄遣いをやめて、その分で社会保障を充実」というゾーンを狙っている。社民党共産党とて基本的にこのゾーンを狙っている。一部左翼がベタな社民主義を主張しても、その主張を取り入れる政党などないのである。むしろ自民党の与謝野氏のような財政再建優先派に近いのではないか?
 もちろん多くの国民が30年以上願っていた「税金の無駄遣い」は本気でやれば数年で片が付く。国民がどの程度の社会保障水準を望むかにもよるが、ある程度の社会保障を望むとなると税金の使い道を変えた程度では財源が足りなくなるであろう。その時、初めて高福祉高負担という生の社民主義が選択肢として登場するのではないか?