多数決至上主義〜なぜ少数派への妥協が嫌悪されるようになったのか〜

民主主義とは、多数決を原則としながら、少数意見にも最大限配慮するものと、我々は中学校の公民の教科書で習ったはずだ。
ところが、昨今の政治はその通りにはなっていない。最近の政治は明らかに少数意見への配慮をネガティブなものと捉え、多数決のみを是としている。いったい、いつからそうなってしまったのか?

比較的機能していた、55年体制

55年体勢は、今考えれば茶番であったが、曲りなりにも教科書通りの民主主義が機能していた。一時期を除いて自民党が衆参で多数派であったため、ことさら野党に妥協する必要はなかったが、たまには野党の修正要求を入れて顔を立てながら国会運営(当時は国対政治と批判されていたが)が行われていた。
また自民党は様々な意見、利害が集まった政党であり、その中での調整はある意味与野党間以上のものであった。総務会での全会一致を前提としていたため、党内で様々な妥協がはかられ、政策はえてして足して二で割ったような玉虫色のものが多かった。

55年体勢の限界と小選挙区

そのような調整機能の中で生み出された、中途半端な政策への不満が80年代後半以降噴出し、それが自民党の限界として語られるようになってきた。
端的に言えば、自民党の選挙基盤である農家や中小小売業などに配慮しながら、グローバルで自由主義的な政治を目指すことへのフラストレーションが、経済界や有識者の間で高まってきたのである。そんな空気の中から出てきたのが、政治改革や小選挙区制度の導入といった議論である。
小選挙区制度では、40%の支持を得た政党が70%の議席を得る特性があり、少数意見に振り回されない政権運営が可能である

既得権益打破という名の下の少数意見無視正当化。

以上の動きは、戦後保守政治を共に支えてきた経済界など「強い保守」と農家や商店、地方のゼネコンなどの「弱い保守」との利害が対立し、「弱い保守」にマスコミなど「強い保守」の代弁者が「既得権益者」のレッテルを貼り、元々自民党政治に批判的だった都市部のリベラル層がそれに雷同したに過ぎない。
その中で、元々革新政党を支持し、少数意見への配慮を重視してきたはずの、都市部のリベラル層が変質(変質した彼らはもはやリベラルではない)した。彼らにとって、戦後の保守政治を支えてきた「既得権益者」は憎むべき相手で、彼らが不利益を蒙る政治は愉快であったのだ。それが頂点を極めたのが小泉政権時代であろう。

自公連立。機能しない民自対立。

少数意見の無視という行為は皮肉にも自民党内で行われ、なぜか自民党主流派と公明党の関係は良好で、賛否あるにせよ与党第1党の自民党が連立のパートナーである公明党に配慮しながら政権を維持した。そこではむしろ民主主義の教科書が生きていたと言える。その結果、看板は保守色を出しながら中身はそれほどでもないような成果が多かった。(それに不満を持つ人も多いが)
民主主義の教科書が再び死んだのは、政権後退後参院選でねじれが生じて以降であろう。自民党は次の総選挙での政権奪取を確信しているため、「野党の政策を与党に飲ませる」必要性はなくなり、自分たちの政策を実現するためでなく、「民主党がまたマニフェストを破った」という既成事実を作るために政策変更を迫り、与党の支持率をさらに下げることが目的になっている。
ねじれの結果、今も与野党間の妥協は常に行われているが、そこで行われていることは、もはや民主主義の教科書に書かれた妥協とは言えない。

危険なマニフェスト選挙

少数意見を無視して抹殺して欲しいという気持ちは、自分が多数派に属した時に顕在化する。小泉政治にも靡かず引き続き自民党に批判的立場を取ったリベラル層も、自民党政治(特に小泉政治への)アンチテーゼを多く含んだ民主党政権が誕生した時に望んだことは、マニフェストの貫徹であった。
参院選自民党が勝利し、民主党マニフェストが野党との妥協なしに成立が困難になった後も、彼らが求めたのはマニフェストの貫徹であった。民主主義の教科書では、与党は野党に可能であれば譲歩すると書いてあるのに、彼らは譲歩を嫌った(先述した通り、自民党が求める譲歩は、民主主義の教科書から逸脱しているのではあるが…)のである。
リベラル派=少数意見を大事にするというのは妄想で、彼らも自分たちの意見が多数派になりそうな時は、反対派の少数意見の抹殺を望むのである。それは脱原発の民意が優勢な現状下では、脱原発派は原発推進派を政治の場から排除して、完全なる脱原発を望んでいることからも明らかである。
そもそもマニフェスト政治自体、「選挙で国民に約束した」という錦の御旗の下、野党に一切配慮しないことを正当化できる危険な要素がある。民主党は余りにもマニフェストが実現できていないので問題が顕在化していないが、もし参院選も勝って、勢いでマニフェストに書かれている政策を次々と強行採決していたら、それはそれで危険であった。

少数派への妥協を嫌う民意を穿ってみる

このように、妥協を拝し、少数意見を軽視する政治の潮流は、その他の政治の潮流と無関係にむしろ深化し、現在では左右政治的立場関係なく、ほとんどの人の心の中に「自分の意見が通る政治に期待し、同時に自分と反対意見は無視して抹殺することを期待する気持ち。」を宿らせてしまっている。
独裁的な政治家を批判して正義感を満たしている人も、今一度自分の中にある独裁的な気持ちに向き合って、それが正しいのか省みるべきではなかろうか。