紅白は何を目指すのか?

 紅白歌合戦を二つの切り口で刻んでみたい。一つは近年蔓延する「サプライズ依存症」である。奇しくも、昨日の流行語大賞に「小泉劇場」という言葉が受賞し、無能な宦官武部が授賞式に呼ばれていたが、まったく忌々しいことである。
 普通の日常に満足できず、つねにマスコミや周囲から提供される「ネタ」や「奇襲」を口を開けて待っている大衆。その様相は食材そのものの味を感じられなくなり、刺激の強い香辛料をふりかける味覚音痴の如くである。
 それに遍くマスコミ。小泉はポピュリストを装いながら国民の白痴性を見透かし、蹂躙した訳であろ。「小泉劇場」という言葉はまさにそれに蹂躙させられたマスコミと国民への侮辱の言葉である。
 話を紅白歌合戦に戻すが、紅白を近年脅かしている格闘技はまさに大衆の求める「ネタ」「サプライズ」の宝庫である。常に意外性のある戦士を登場させ、常に「見てみたい」と思うようなものを提供しているのである。
 紅白歌合戦は本来、その対極に存在する「大いなるマンネリズム」の象徴であったのだが、困ったことに近年中途半端な小仕掛けをしてくる。今年も「和田アキ子白組」やら小仕掛けをしてきたが、全然面白くない。こういう中途半端なサプライズが一番空虚である。今年からガラリと番組の趣向を変えるぐらいの「サプライズ」であればそれなりに評価できたのであるが。
 もう一つは少しディテールな話になるが、歌番組としての姿勢である。元々は、その都市に活躍した歌手がその年にヒットした流行歌を歌う祭典であったが、近年では大物と呼ばれる歌手の新曲があまりヒットせず、ほとんど過去の代表曲を歌うようになった*1。その中に今年ヒット曲を出した若手アーティストが混じるという何とも奇妙な形態が続いている。
 結論を言えば、既に日本の流行歌は世代によって全く趣向に差異が生じてしまっているのである。このような大衆音楽を大晦日に放送する意味があるのかという問題に行き着く。
 世の中には、大晦日は家族あるいは一族揃って云々という保守的な価値観を大事にしている人が今でも多い。もし全ての世代が一斉に視聴する番組を作りたいのであれば、もはや流行歌という題材を捨てるべきではないか。もし流行歌という題材に拘るのであれば、もう視聴率を気にするのをやめて、懐メロに特化してもようのではないか。(私はたぶん見ないが)
 極論を言えば、大晦日NHK大喜利をやるとか。この方が視聴率取れるかも。

*1:大物歌手の流行っていない新曲を聴くほど苦痛なものはないので、まだこの方がマシだが。