事業仕訳でやっていること

 事業仕訳で行われたものの多くは、80年代後半から90年代の前期自民党ネオリベ政策で、自民党内の守旧派との妥協の結果生まれた負の副産物を整理する作業であったと言える。
 事業仕訳=ネオリベ的という単純なものではない。今回の産業はネオリベ路線を進めたい側にも、それを否定したい側にも共通して必要な作業であったと理解すべきだ。
 初期自民党ネオリベというのは中曽根政権から橋本政権までの、自民党内のネオリベ志向の路線であるが、支持基盤との妥協の結果、公共事業に容認的、官僚組織に親和的であったのが特徴である。
 小泉政権以降は、支持基盤への軋轢を覚悟した公共事業や官僚組織へのメス入れの狼煙を上げ、その結果高い支持を得たが、郵政民営化を実現した直後に小泉総理が退任、その後構造改革路線より保守再生に興味のある安倍政権からネオリベに否定的な麻生政権に至る間に、マスが入れられないまま放置されていたのだ。
 民主党政権はたまたま自民党政権が手付かずに置いていたものを片付けただけというお話しではないか。

負の副産物を生んだ、「ランニングコストの垂れ流しは許さないが、イニシャルコストは許す」という発想。

 ネオリベ的な政治の潮流が萌芽した中で生まれてきた予算づけの考え方で、80年代後半から国や地方自治体に広く広まった思想である。役人は「自立支援」という言葉を多用するが、ようは弱者を自立させるためのイニシャルコストは許容できるが、弱者にお金を払い続けるのはダメという発想だ。
 政策批判の常套句である「バラマキ」という言葉は、後者のような支出への批判を包括したものだ。イニシャル的なコストはそれほど批判の対象にせず、ランニングコストを抑制できるのでればむしろ評価するとうのがネオリベ的な歳出論である。この発想自体はそれなりに説得力があるので支持する人も多く、マスコミもこの発想に好意的なことが多いのだが、政治家や官僚によって都合よく解釈されて歪曲された面が否めない。
 この発想を利用することで、前期自民党ネオリベネオリベと公共事業という矛盾するものを両立させた。年金施設や社会保険福祉施設などは、バラマキ抑制のために許容されたイニシャルコストその最たるものだろう。医療費を垂れ流すより健康増進施設を作って国民が病気にならないようにする方が賢い出費だと言えば聞こえはいいが、その美名の下で80年代に次々と無駄な施設が作られた。

独立行政法人という制度そのものがネオリベの抜け殻

 橋本行革の下、上記のハコモノ施設などの運営を含めて、行政の一部が独立行政法人という形で省庁から分離されて、独立採算が求められ、事業収支などが厳しく見られるようになった。これはイギリスのサッチャー政権がやったエージェント制度を模したものと言われている。
 この改革の成果に、当初ネオリベ寄りの有識者も評価する声が多かったが、どうもしたたかな官僚に骨抜きにされたようだ。
 そもそも官僚機構の一部であったのを独立させたのであるから、官僚OBが理事などに就任しても、前と変わらない。変わらないだけならまだよかったが、それまでの局長級、課長級などとその組織の長の給与に比べて独立行政法人化された後の理事の給料がはるかに高いという現象が起きた。また官僚組織であれば局長級にならなければ車も秘書も付かないが、独立行政法人となってから理事にクルマと秘書が付くなど、明らかな焼け太りが見られた。

小泉批判の影で忘れられる中曽根〜橋本政権下でのネオリベ政策の弊害

 よく小泉改革による格差拡大などをネオリベの弊害と語られることが多いが、実は中曽根政権から橋本政権時代に行われた前期自民党ネオリベの弊害が多いのである。そのことを理解しているのは、ネオリベ派の学者にも多くはない。政治家が特定のイデオロギーを自分に都合よく利用するものだが、純粋な学者は自分の学説が実態政治に利用されると天狗になってしまって、そういう問題に無関心、無批判になるのだ。
小泉政権も本来なら前期自民党ネオリベの弊害除去を最優先にし、郵政民営化などはその次にやっていればまだ状況が変わっていたのかもしれない。腐った土台の上に城を建てたら戦果など期待できない。
小泉時代にこの事業仕訳をやっていれば、ネオリベラリズムの再構築―進化に利用できたかもしれないのに、民主党政権に餌を残してしまった。この事業仕訳は、反ネオリベ的な政策実現のための財源捻出に使われている。