YOSAKOIソーランが物足りない理由

 今や雪祭りを遥かに凌駕する札幌最大のイベントとなったYOSAKOIソーランであるが、どうも未だに好きになれない。
 私が最初にYOSAKOIソーラン祭りを見たのは、まだ東京にいたころ。太鼓のサークルで武蔵工業大学の学園祭に出演した時であった。同じステージにYOSAKOIソーランのチームが出ていたのだが、あの踊っている人しか楽しくない自己完結な雰囲気。囃し手と踊り手の上意下逹な雰囲気。囃し手のうざいマイクパフォーマンス。はっきり言って吐き気がした。
 札幌に来て、昨年はじめて本場のYOSAKOIソーランを目の当たりにした。私の先入観そのままのうざいチームもやはり多かったのだが、何十チームもある中にはそこそこ楽しめるものもあるのも解った。でもやはり歴史の浅さから来るチープさは否めず、好きになるには至らなかった。
 以下私なりにYOSAKOIソーランが物足りない理由をまとめてみた。

  • 型がない。
    • YOSAKOIソーランは鳴子を持って、ソーラン節のフレーズを一部にでも入れればいいとい極めて緩いルールだけで何でもありである。無地のキャンパスに自由に描ける訳だが、これは実は日本人が苦手とするものである。
       日本人は型を作って、その型を少し崩したりしながら遊ばせると天才的な想像力を発揮する。これは何も伝統芸能だけでなく、お笑い何かもその傾向があるなぁ…。
       YOSAKOIソーラン自体に型がないにしろ、チーム独自の型を作らないと…。
  • 踊り、音楽そのものに大した価値がない。
    • 別に日本的なものがいいとは言わないが、ヒップホップか何かのつまみ食いみたいな踊りが多く、それも消化できていない。また激しいだけで緩急がないので見てて飽きるチームが多い。動きが速いだけで体の動作が小さいチームが多い。
      音楽もヒップホップやテクノにソーラン節を混ぜたような無価値の音楽が多い。電子音を大音量で流すのは聞いていて辛い。
  • 声が出ていない
    • 囃し手と踊り手が分離しており、囃し手ばかりの声が聞こえてうざい。踊り手は踊るだけのチームが多く、声を余り出さない。囃し手と踊り手が呼応するチームが少ない。最低、チチーム内で声を出し合わないと祭りとしての臨場感が出ない。
  • 自己完結。観客と踊り手の分離
    • 観客はせいぜい拍手するだけ。観光客相手の祭りなら仕方ないが、YOSAKOIソーラン観光客相手というより地元の内輪の祭り。なのに静か。これも型がないから。
      型があれば観客が合いの手を入れたり囃したりできるのに。踊りも曲も踊り手しか知らないから観客は拍手するぐらいしかできない。踊り手と観客が一体となって祭りの臨場感が生まれる。だったらまだスポーツやコンサートを見た方が一体感があっていい。
      ごく一部のチームはお約束の型を持っていて、知り合いやファンから合いの手が入る。
  • つまるところ、YOSAKOIソーランの感動は学校教育的感動。
    • 結局得られる感動は「踊り手の一生懸命さ」「若さ」「元気をもらった」というレベルの感動。更に子供や友達が参加していたら、一所懸命練習していた彼らの姿がフラッシュバックして感動もひとしおであろう。しかしこれは祭り的な感動や芸術的な感動ではない。
      学芸会で感動する観客と同じ、汗と涙の学校教育的感動でしかない。

 とはいいながら、これはこれで楽しみ方もあるので、それについては次回に述べます。