生活安全主義の危険

 以前私は現代日本のマジョリティーは「生活安全主義」だと述べたが、はたして我々の安全の権利はどこまで主張できるのであろうか。
 本来人間の欲求からして安全に対する要求は自由に対する欲求を上回る根源的ものであり、安全に対する飽くなき欲求は時と場合によっては、自由をも侵しても厭わなくなる。米国におけるメーガン法の成立は一つの転機と言っていいだろう。
 私も生活安全主義が危険な思想なのか、比較的バランスの取れた思想なのかはまだ断定できない。悲観的に考えれば、犯罪者に対する即死刑又は恒久隔離、精神障害者や黒人等犯罪傾向の強いとされる集団に対する予防拘束や隔離の要求等、ファシズム的な思想まで発展する危険性もある。楽観的に考えれば、そもそも生活安全主義者は究極の安全までは求めておらず、ある程度の安全さえ確保されればリベラルな存在であると考えることもできる。
 しかし既に我々は、経済的な許容範囲の中でできるだけ安全な生活空間を保とうという行動を取っている。しかも○○は危険といった根拠のない噂によって、多くの人の行動が左右されている現実がある。この際、思い切って所得別、職業別、人種別、あるいは精神障害者犯罪歴による犯罪発生率のデータを公表してしまってはどうであろうか? 基本的に差別につながるようなデータは公表してはいけないのであろうが、意外と我々の先入観が間違っていて、我々の行動が根拠のないものであろうかも知れない。もちろん、データで裏づけされてしまって、国民のリスク回避行動を助長させてしまうかもしれないが。