人権という言葉を毛嫌いしている人に告ぐ!

 私はどうも「人権」という言葉をネガティブに使う人を好きになれない。恐らく「人権」という価値を金科玉条にしている人を批判したいのであろうが、「人権」という言葉に罪はないのであるから、矮小化して欲しくない。
 くしくも、この度外務省は「人権問題担当大使」なるものを設置した。先ほど同名の担当官を置いたアメリカの真似ではあるが、私はある意味評価している。
 北朝鮮問題に熱心に取り組んでいるグループや政治家の人に「人権」という言葉を毛嫌いし使いたがらない人が多いのが前から気になっている。彼らの多くは「主権侵害」という言葉を用いる。もちろん主権侵害であるので、間違っていないのであるが、拉致問題を国際的に解決するには「人権問題」であると主張することが重要である。
 「主権」というのは日本自身が守らなくればならないもので、日本の主権が侵されたとしても他国が助け舟を出してくれるものではない。国内で主権問題という議論は構わないが、国際舞台で主権問題といったところで、他国には他人事なのである。
 しかし「人権問題」はどうか?人権抑圧を見過ごすことは許されるべきことでなく、国際社会全体の問題として解決してゆかなければならないのである。

日本の公とアメリカの公

 どうも「人権」という言葉がコミュニタリアニズムリバタリアニズムの中に埋没し、得てしてコミュニタリアンリバタリアニズムを批判する文脈で使われる。しかしアメリカにおいては人権は国家の基本的共通価値であり、それはコミュニタリアニズムリバタリアニズムに共通する価値なのである。
 結果的に日本のコミュニタリアニズムアメリカのコミュニタリアニズムが異質であるところに行き着く。このことはアメリカの保守主義者が例えば中国を人権後進国と批判するのに対し、日本の保守主義者は人権という言葉を用いず、別の文脈で中国を批判することに顕著に顕れている。
 そして日本の保守イデオロギーも「人権」という概念を軽視すると、欧米諸国から、中国の人権後進性と同じ穴の狢と見られている危険性があることに注意しなければならない。