駒大苫小牧3年生の飲酒・喫煙問題

 私は、昨年の駒大苫小牧の監督による暴力事件に関して「爆発寸前の本音世論」id:kechack:20050823をエントリーしているが、また不祥事が発生してしまったので言及する。

時代の空気

 今回の件で明らかなのは、時代の空気がそうさせたということである。一昔前なら卒業式の後に打ち上げをしている高校生を見たとしても、多少正義感の強い人であってもわざわざ通報しなかったであろう。(いわゆるなんとなく容認)
 しかし、近年のタレントの飲酒・喫煙の問題に見られるように、時代の空気が変化しているのである。この空気はそろそろ、新歓コンパで酒を飲んでいる大学生に及び、学園祭が禁酒になり、学生街の居酒屋に閑古鳥が鳴くようになる日も近いであろう。
 この空気は一種のモラリズムの高揚と言ってもいい。モラルの乱れを黙認できない人、不安に思う人が増えているのである。原因は多々あるが、治安の悪化やライブドアに代表される企業の不祥事の多発が最大の要因である。

いけないのは大人なのだが

 本当は大人がいけないのだが、子供たちにそのとばっちりが行っている。物事を単純化したがる人は諸問題を何でも教育の問題に回帰したがる*1。治安悪化や企業の不祥事は教育がいけないのだと*2学校に子供たちをしっかりしつけるように求める世論となる。
 私は校則がほとんどないような学校で伸び伸びと青春時代を謳歌させてもらった手前、今の中高生にだけ厳しい教育を強いるのは何とも心苦しい。
 しかも生徒たちから見れば、先生たちの時代は未成年の飲酒・喫煙に寛容な時代で、先生たちも恐らく18歳ぐらいで飲酒・喫煙をしている訳で、新たに20歳になるまではお酒も煙草も絶対ダメといった教育をされたところで、理不尽さを覚えるであろう。
 一部の賢い生徒は「時代が変わったんだよ!」と言えば理解してくれるかも知れないが、「時代によって倫理観が変わる。その空気を読まないと酷い目に遭うよ」と教えるのが教育なのだろうか?
 また一部のボンクラ生徒には、先生たちの学生時代のリベラルな雰囲気を封印して、一方的に厳しいモラルを強いることも可能かも知れない。しかしそれが教育であろうか?
 駒大苫小牧を批判することは簡単だ。生徒に「やってはいけないことを教えるべきだ。」というのはごもっともである。ただ、そんなきれいごとは誰でも吐ける訳で、教育現場でどうやって指導していくのかという現実問題は非常に難しい。

倫理と法

 世の中には人間の倫理観を期待し法律は簡素な方がいいという考えと、倫理観には普遍性がないので細かい部分まで法律で規定した方がいいという考えがある。
 多民族国家や複数の宗教が混在する国家では、現実的に後者の考えを取らざるを得ないのであるが、日本では単一民族国家幻想がまだ残っており、前者の考えを支持する声も根強い。
 だが、未成年の飲酒・喫煙に関してこれだけ時代によって寛容度が変化することを考えれば、普遍性のない倫理観に依存するのは非現実的だと考えなければならない。単純に未成年の飲酒・喫煙は法律で禁じられているからダメと常に言い続けるしかない。
 しかし、肝心の法律も運用面で時代の空気に支配されている。社会の雰囲気が未成年の飲酒・喫煙に寛容である限りは警察は取り締まりをしないし、通報する人もいない訳である。
 本来なら公安当局は、時代の空気に流されない普遍的な法の運用が求められるのであるが……。
 

*1:人間は何でもいいから原因を決め付けることによって安心したがる傾向にある。

*2:参考:ライブドア事件は教育のせい