差別という試練と才能

日本人のタレントで半島出身や在日の人はいくらでもいるので別に驚きはない。
 2ちゃんねるの「ハングル板」に行けば、ガセネタを含めて、あらゆるタレントやスポーツ選手がチョソと書かれている。しかしその差別的な雰囲気に反比例して、私は畏敬の念を抱いてしまうのである。日本にいる在日コリアンは総人口1%に満たない。同じ構成比で言えば100人に1人いればいい計算であるが、どう計算してもこの枠を大きくはみ出す。スポーツ界や文壇等も同じ状況だ。
 これは欧米におけるユダヤ人の状況に似ている。ユダヤ人の人口構成はアメリカにおいても0.5%に過ぎず、全世界のユダヤ人を合算しても1400万人しかいない。であるのにその存在感の大きさは何なのか?この少数民族はこれまで100人以上のノーベル賞受賞者を輩出しているのである。
 ただこれは特定の民族が優秀*1という話ではなく、ある条件の下では民族に関係なく起きうる現象である。

  1. 民族としての誇りが高い
  2. しかし他民族が支配的な地域に居住し、差別的な待遇を受けている。
  3. 他民族には同化しない。
  4. 都市部に偏住ことにより、刺激を受けやすく、チャンスにも恵まれる。

 日系移民も移民先で多く成功を収めているのは周知の通りである。
 逆説的に言うと、第1次世界大戦後に一般化された民族国家というが概念が宜しいものなのか?という考えも生まれる。多くの人間が自民族が支配的な地域に安住し、他民族が支配する国家に住む人間が味わう試練を受けるないが為に、努力をせず自身の才能を眠らせたまま死んでいくのである。
 「差別」はよくないことではあるが、差別が多くの人間の才能を開花させた事実も忘れてはいけない。

*1:確かに自国にいるコリアンやイスラエルにいるユダヤ人は言及するほど優秀とは思えない。