差別は数学である。

 後者の差別は、差別意識の露呈というより犯罪発生率の高い母集団を避けるというリスク回避の一種である。最近、医療保険や生命保険で非喫煙者の保険料率を低くしたり、自動車保険で通勤に車を使わない人の料率を低くするといったリスク分散型商品が定着しているが、それと同じ行動である。
 今でこそ戦後民主主義教育の効果か?こう言う人は少なくなってきているが、戦前世代の親はよく「○○ちゃんと遊んではいけません」とか「○○町の子供と遊んではいけません」なんてはっきり言ったものだ。悪しき差別意識と糾弾することは簡単だが、悪い友達を作ってほしくないという親心は古今東西変わらないものであるから難しい。
 戦後世代の人間だって、リスク分散行為はよくやる。例えばマンションを買うときに一番重視されるのが地域の治安や教育環境である。東京などでは都営住宅と同じ学区域にマンションを建てると売れないというのは業界の常識である。
 彼らは都営住宅=低所得者=危険ということでリスク回避を行っているのである。外国人差別や同和地区への差別も元々はリスク回避行動が発端であることが多く、最初から差別意識で満たされた人間の行動とは言えないケースが多い。被差別者を直接差別する行為は糾弾される*1が、被差別者との接触を回避する行為を消極的差別行為と言い、特に糾弾されないので、似たような行為は日本国内で多く見られる。消極的差別行為を助長すると封印されてきた公立小中学校の自由選択を解禁した自治体もあり、治安の悪化と比例して消極的差別が蔓延しないか心配である。
 人間のリスク分散行為と保険のリスク分散商品の差は前者が先入観というパラメータ値なのに対し、後者が高等数学を用いて算出されたものである点にあるのだが、かといって倫理上、低所得者や外国人や同和地区出身者といったカテゴリーで犯罪発生率を算出すること自体問題がある。問題があるので放置すれば、人々のリスク回避のための先入観は行き続ける。そして治安が悪化するほど、人々が先入観に基づくリスク回避行動を行うことを「人道に反すが生存のための必要悪の手段」として黙認せざるを得なくなってくるのである。

*1:部落差別や朝鮮人差別は、彼らと居住地域を接する非部落の日本人貧困層によって行われてきており、上流日本人は差別の対象となる人々と接することすらないというのが現実であった。