ナショナリズムの今−小熊英二−

 小熊英二のインタビューが朝日新聞に載っていた。小熊氏の本は結構好きで読んでいる(といいながら〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性を読み終えていない)のだが、教育基本法改正における愛国心の問題において貧困な意見が飛びかう中で、いいエッセンスが抽出されていた。

 「近年は経済の停滞とともにナショナリズムが台頭した」という形容は少し単純。80年代以前にも「日本的経営は優れていう」とか「日本人は勤勉な民族だ」というあの時代のナショナリズムの表現があった。90年代以降は経済が停滞し、そういう表現が成立しなくなって、歴史認識靖国問題などに焦点が移った。「ナショナリズムの表現形態が変わった」とみなすほうが適切でしょう。

 著書の中でもこのような見解は述べているが、私の中では非常にクリーンヒットな見解です。私は80年代以前のナショナリズムにはなぜかシンパシーを感じるのですが、90年代以降のナショナリズムはどうも負け犬っぽくて違和感を禁じえないのです。
 私はNHKの「プロジェクトX」が好きで、あれは現在に戦前のナショナリズム復興のような90年代ナショナリズムでなく、80年代ナショナリズムを復興しようという試みで、私はそのようなムーブメントに期待はしておりました。
 しかしそれも復古型のナショナリズムという点で90年代ナショナリズムと大差なかったのかも知れません。やはり支持が拡がったとは言えず番組は終了してしまいました。

 丸山真男は、戦前日本の超国家主義は、農村や小工場など中間共同体のボスが支持者となり、共同体構成員を引っ張っていった。それは、中間共同体が壊れた大衆社会で、原子化した個人が価値観のよりどころを求めてナチスを支持していった形態とは異なると言っている。
 日本の戦後の高度経済成長も企業や労組、商工会など中間共同体が核となり、80年代の経済ナショナリズムもその延長にある。
 90年代の不況により、企業一家主義や終身雇用は時代遅れとされ、地方の商工会も寂れた。それまで中間共同体に頼ってきた人々に孤立感が広がる。そのに日本にも大衆社会型のナショナリズムが成立する基盤ができた。

 私も90年代以降。あまり政治の話題をしなかった友人が、次々とナショナリスティックな発言をするようになり、「今日本にナチスが出現したら、政権とっちゃうよ」と危機感を覚えたことがあります。今でもその状況は変わらないか、よりその危険性が高まっている訳ですが。
 丸山真男もさすがに、ムラ社会日本民族までもが共同体崩壊現象を起こすとは思っていなかったでしょう。

 日本の右派や保守派には思想的な核がない。「つくる会」などもアンチ左派で結びついているだけなので、すぐに脱会や分裂騒ぎが起きてしまう。
 しかも彼らが批判する「サヨク」も、彼らが実情も知らずに思い込みで作った幻想だったりすることも多い。

 まあ私もネットウヨの揚げ足取りばかりやっているので、こういうのは毎日見ておりますね。日本に天皇制廃止を願っている人がたくさんいるみたいな妄想とか、ちょっとおかしな妄想は腐るほどみてきました。
 まあもっともサヨを批判する時代なわけでもない訳で、左翼系のオピニオン誌を読んでも、保守派や政府の批判ばかりで、「左翼はこう考えます」みたいな意見表明なんてのはほとんど書いていないので、批判しようにも批判しようもない。
 今、ウヨが批判している意見というののは80年代以前に見られた左派の意見で、その意見を今でも唱えている人が多くいるという仮定で批判している訳で、そんな意見を言っている人はもう死んでいる場合が多いのです。

 アメリカなら経済を含めた自由主義思想が保守派の核です。ヨーロッパなら貴族やブルジョア層の思想というか生活様式が保守派の核であった。しかし日本は下級武士の起こした明治維新以来、政府主導で文明開化が進められた。だから上層貴族の生活様式自由主義思想も保守思想の核になり得なかった。
 そういう違いは保守主義者の行動の違いにも顕れ、ヨーロッパの環境保護運動は貴族がキツネ狩りをする森を守れと、保守層から始まる。他方、日本の自民党は乱開発で自然を壊してきた政党であって、どこが保守政党なんでしょうか?

 環境保護保守主義の範疇であるべきというのは私も前から思っていました。
 もっとも80年代以前のナショナリズム=高度成長を成し遂げた日本への自負と自然保護が矛盾しているのも事実で、私の中のパラドックスになっております。 
 80年代以前のナショナリストというのが経済至上主義で自然破壊を躊躇しなかったというのもまた事実であります。

 戦前から戦後のある時期まで、日本の保守にも天皇という核がありました。ところが「つくる会」でも戦後生まれの会員などは天皇にさして関心がない。そのため、歴史問題で相変わらず「サヨク批判」をしたり「伝統」とか「武士道」とか。各自勝手に「これが日本らしさ」と思うものを称えることしかできない。

 天皇が保守派の核でなくなったのは美智子様からではないでしょうか。これ以降皇室は国民に広く慕われるポピュラーなものになり、今上天皇になってそれは決定的なものになり、保守派のシンボルにならなくなった。
 女系天皇反対運動の中にも、天皇再神聖化のムーブメントも散見されましたが、もうムリでしょう。自分たちの天皇からみんなの天皇になってしまったので、保守派の人が特別天皇に関心を持たなくなってしまったのでしょう。
 「伝統」と「武士道」については、日本には2つの伝統的思想があると思います。一つは武家階級の封建的、儒教的思想―明治維新―戦前の上からの思想。もう一つは日本の農村に太古から流れる農耕民族的価値。まあウヨは前者を日本の伝統のすべてと言ってしまう傾向がありますね。私は後者の伝統にシンパシーを思えますが。