良い格差・悪い格差

少し前だが、格差に関しての秋風碧氏のブログが大変興味深かったので紹介したい。日本においてネオリベラリスムが急速に支持を失った確信を突いている。

 近年、格差の拡大や格差社会化が語られる中で、「格差には良い格差と悪い格差がある」といった話がしばしば議論になることがある。つまり、格差が固定化している社会、既得権が強く、健全な競争が行われない、機会不平等な社会が悪い格差(社会)であり、挑戦の機会が誰にも開かれており、努力した人が報われる社会が良い格差(社会)である、という訳である。
しかし、こうした議論は、課題設定が間違っており、結論を誤った方向に導く可能性があるのではないだろうか。というのも、既得権が強く格差が固定化したピュアな「悪い格差」社会であればありえるが、逆にピュアな「良い格差」社会、というのは非常に考えにくいからである。2世議員が闊歩している政治家からしてもそうだが、都市部を中心に私立学校志向が強くなっており、学校教育にカネがかかるために、教育を通じた格差の再生産(=固定化)が進んでいるといった指摘があったり、人脈や教養など、家庭が保有する社会資本の差が社会における成功に有意な差を生み出しているという話もある。「良い格差」社会ですら、ある程度は「悪い格差」的な要素が含まれることを避けることは難しい。もちろん、リスクテイクして挑戦し、成功した人がリターンを得られるようにする中で、結果的に格差が生まれることは積極的に進めるにしても、「格差社会はいいことだ」というのは順番が逆である。
「良い格差」「悪い格差」議論は、結果的にしばしば、開かれた自由競争の社会→既得権の破壊→規制緩和、ということになるだろうが、マスメディアのような本当に見直されるべき一部の既得権・規制は残り、多くの一般市民の労働条件を悪化させる方向に繋がる可能性の方が高い。

 日本においてネオリベラリズムが最も支持されていた小泉時代のイメージは、「既得権の破壊→規制緩和」まずありきで、そこに格差肯定イデオロギーが付随していた。下流の人間であっても、なんとなく自分は上昇し格差拡大で得をする部類に入るような錯覚を抱き、下流であっても格差拡大を支持してしまう現象が起きたと思われる。
 しかし、小泉政権末期にどうもおかしいという意見が強まり、更に安倍内閣になって「既得権の破壊→規制緩和」という表紙が剥がれ落ち、格差拡大政策が剥き出しとなった。安倍ネオリベラリズムは「今現在上流の人間がそのまま上昇し、今現在下流の人間がそのまま没落する」という嫌らしさが露呈してしまった。

小泉時代の格差拡大 安倍政権の格差拡大

考えられる1つは「収入が低くても生きやすい」社会を目指す、ということだろう。最低限の生活のためのコストが高い社会では、社会保障に頼らざるを得ない人が増大し、セーフティネットも高いレベルで必要となるため、トータルの社会保障費が爆発的に大きくなり、社会保障の破綻に繋がる。最低限の生活のためのコストをいかに下げるような支援をしていくか、ということを考える必要がある。

 いわゆる二重経済のことだろうか。東南アジアや南米などでは、低所得者であってもある程度に生活ができる二重経済化が進んでいる。ただ私は日本がこのような方向に進むべきではないと考えている。
 日本でも現実には、90年代にいわゆる「価格破壊」が進み、100円ショップやユニクロ、ファーストフードや牛丼の低価格化など二重経済化が進んだ。しかし低所得者向けサービスの発達により、更なる低賃金労働者需要を生む。今の日本は「低賃金労働者が喉から手が出るほど欲しい」状況になっている。労働需要が増せば賃金も上昇するはずだが、賃金を抑制しなければビジネスモデルが崩壊するサービスも多く、低止まりせざるを得ない。
 本当に必要なことは、高賃金を得られる付加価値の高い産業を育成して、多くの国民が高所得化することではないか。二重経済化はその逆サイクルを招く。