有権者は許容する

 自分とすべて同じ意見の政治家などいないので、我々は比較的支持できる政策を多く掲げる政治家を選ぶしかない。ただ比較的支持できる政策を多く掲げる政治家の政策の中に、いくつか自分の意見に合わない政策があるのが常だが、多くの場合許容するしかない。
 実際には、有権者はそれ程多くの政治課題に関心を持っている訳ではなく、関心のある分野がある程度絞られるのが普通だ。その分野で支持できる政治家であれば、他の分野は白紙委任してしまいがちである。
 大衆的な支持を集める政治家は、ある特定の分野で大衆の支持を集めると、その他の分野に関しても国民的議論なしにあらゆる政策が許容される場合が多い。小泉純一郎は典型的であった。彼は、既得権と戦う姿勢を見せることにより大衆的支持を集め、「彼は一所懸命国民のためにやっているのであるから、彼のやりたいようにやらせてあげればいい。」という『許容する世論』が出来上がる。
 私は小泉元総理の「靖国参拝」は許容された世論の類型と見ている。実は靖国問題に関して多くの人は無関心で、参拝すべきだともすべきでないとも思っていない。ところが、小泉が参拝すると言えば、多くの国民が許容するのである。それが「国民は靖国参拝に賛成」という世論調査の結果となり、それを保守派知識人や政治家が「自分たちの考え方が国民に支持されつつある」と勘違いする。結果的にその勘違いの延長にあるのが安倍政権であり、最後は世論との温度差が露呈し崩壊した。政策の評価は別として、小泉純一郎というのは政治をよくわかっている人間であり、多くの保守派知識人や安倍晋三は政治をわかっていなかったと思う。
 古くはヒトラーがこの類型だ。別にドイツ人を擁護する気はないが、戦前のドイツ人は何もユダヤ人の絶滅を願ってナチスを支持していた訳ではない。元社会民主党員の手記という有名な手記がある。

人々はナチスに対し全く無批判でした。精神の自由など、大多数の人々にとっては価値のある概念では全くありませんでした。ナチスに疑いを差し挟むと次のように反論されました。「ヒトラーの成し遂げたことをぜひみて欲しい。我々は今ではまた以前のように大したものになっているんだから。」ヒトラーが失業問題を解決したという事こそ、私たちにとって重要な点だったのです。

 人々はヒトラーの実績を支持し、ユダヤ人虐殺は支持したのでなく許容したのだ。
 人間というのは特定のことで支持できれば、かなり酷いことでも許容するのだ。今だって、石原慎太郎がかなり酷い発言をしても許容される。石原都知事の過激発言に拍手喝采しているのは実はごく少数で、圧倒的多数の都民は他の政策を積極的に支持しているが故に許容しているのである。
 これまで右ウィングの危険性ばかり指摘したが、左ウィングでも本当は同じことができる。フランスのミッテラン元大統領の例を挙げよう。彼は言論の自由化や労働環境の改善などで大衆的な支持を得る一方、当時国民世論では賛成が多数であった死刑制度を廃止した。多くの国民が彼の実績の下、国民が本当は支持していない死刑制度の廃止を許容したのである。日本では右派政治家=リーダーシップがある。リベラルな政治家=ダメ。という定説ができあがってしまい、リベラル派でこのような政治ができる人がなかなかイメージしにくいが、「許容する有権者」を単に「危険だ!」という紋切型の言葉で片付けて欲しくないので、このような可能性もあることも付け加えておく。