安倍教育改革の顛末―右派の不満―

 現状に不満がある人が多いと、「改革機運」が起こる。不満のベクトルがバラバラのまま、とにかく現状が良くないと思う人が議論して、総花的な改革案を作って、よくわからない改革をやって改革をした気になるというのはよくある話だ。
 現状に不満が出やすい問題として、教育問題が挙げられる。教育問題ははっきり言って正解が求めにくい問題で、常に「今の教育は問題が多いから改革が必要だ」と叫び続けられ、改革議論が永続する問題だと思う。
 よくマスコミは「改革が必要か否か」といった漠然とした世論調査を行うが、実にくだらないと思う。特に教育問題に限って言えばまったく意味がない。教育問題に関しては、今の教育がベストであると考える人は常に少数であり、常に多くの人が改革が必要だと考える性質のものだ。しかも改革の方向性は常にバラバラである。
 教育改革を売り物にしていた安倍内閣は、そんな教育問題をうまく利用した。最初から改革が必要だと考える人が多いに決まっている問題だから、当然のように教育改革には支持が集まる。
 でも実は、改革の方向性はバラバラだ。まあ、安倍=右翼というイメージが強いので、安倍政権の教育改革=愛国心教育というイメージだが、実際の教育再生会議や世論の動きを見ていると、学力向上派の支持も高く、中には個性重視派、国際人教育派といった教育右派とは利害が対立するような人までよくわからずに教育改革に期待していたりする。例えば教育再生会議委員だったワタミ社長の渡邉美樹氏は一貫して拝金主義や「成功したもの勝ち」的な風潮を批判している。これらの主張はむしろ日教組に近く、安倍側近に多く最近では橋下大阪府知事に代表される新自由主義的競争主義教育と矛盾するが、小泉政権末期に起こった「拝金主義批判」に雷同する形の教育論に立つ意見まで安倍時代の教育改革は包括し、サッチャー主義的な競争教育との矛盾を抱えたまま総花的な教育改革を邁進したおであった。
 まあ一般的に学力重視派は日教組を敵視する人が多いので、多くの場面で愛国心教育派と共闘関係にあり、愛国心教育派の中に学力向上を重視する人も多い。この両者が安倍教育改革の中核であったのは事実だ。
 ただ学力重視派といっても、細かく見るとエリート教育派と底上げ派がいる。前者は国におけるエリートの役割を重視し、「真のエリート教育」という言葉を好み、一部のトップレベル学力保持者の更なる学力向上を望む。一方底上げ派は底堅い中庸な学力保持者の層の厚さが日本の高度経済成長を牽引したと評価し、その層が崩れていることに危機感を覚え、特に公立学校での授業レベルの向上を重視する。
 愛国心教育派とは特に前者の親和性が高い。渡部昇一日下公人など、愛国心とエリートを両輪に語る人も多い。特に古い保守層は旧軍エリートに対するシンパシーが強く、エリート教育に対する憧憬、復古願望が強い。
 一方底上げ派には、日教組教育が平等を重視し全体のレベルを下げた。ゆとり教育日教組のせい*1という考えの人も多いが、最近は格差批判をする反新自由主義層の中で、富裕層と貧困層の教育機会格差の是正を主眼に公教育復活を支持する声も少なくない。エリート教育派に新自由主義に親和的な人が多いのとは様相が異なる。反新自由主義層は安倍内閣には批判的立場の人が多かったが、その意味で教育改革では限定的に支持に回った人も少なくない。
 そんなこんなで、より幅の広い支持を得るために、安倍内閣の教育改革は、愛国心教育派の意見と学力重視派の意見を中心にしながら、一見矛盾するような個性重視派や国際人教育派の意見まで混ぜながら総花的な改革を行った。
 ところが、今になって文句を言っているお馬鹿さんがいる。そう高崎経済大学の八木教授である。

 くだらないので細かい部分には触れないが、彼は愛国心教育派の主張を叫んで、その主張が貫徹されていないと叫んでいる。もともと安倍内閣の教育改革は広い支持を集めるが故に、学力重視派などいろいろな意見が混ざっている。愛国心教育派の主張が曖昧になるのは当然である。
 もし愛国心教育派の主張を貫徹するために、学力重視派やその他の意見を無視したら、教育改革には支持が集まらずに頓挫したであろう。
 より純度の高い改革をやろうとすると、政治的にマジョリティー確保が難しく、頓挫する可能性が高い。政治的マジョリティーを確保しようとすると改革の純度が下がる。こんなのは政治の基本である。できもしないことを騒いでいる八木秀次は政治センスゼロなのではないか?

*1:多くは文部省の責任だが