権利としてのプライドと義務としてのプライド

 最近、日本人としての誇りだとかプライドとかいう言葉を実に安易に使用する輩が多いので警鐘を鳴らす意味でプライドについて一筆書かせてもらった。
 人間が生きていくためにはプライドが必要だが、邪魔なプライドほど醜いものはないという二面性を持つ。プライドというものはある意味コレステロールに似ている。良性のプライドについて話す前に、どういうものが悪性のプライドかまず考えたい。
 悪性のプライドの典型は、義務としてのプライドを果たさないで権利だけのプライドを誇示する場合である。例えば日本人として恥ずかしくない行動を行う努力はしないのに、自分は日本人であることに誇りに思うことである。典型的なのがNEETのくせに日々中国や韓国の悪口を言っている奴である。彼らは戦後焼け野原から立ち上がり、高度経済成長を遂げた親の世代が苦労して築いた豊かさにタダ乗りして、「俺は日本人だ!」と威張っている最低の人種である。俗に言うヘタレ保守という人種だが、こういう輩には日本国家太平を論じる前にまず自分自身を見つめ直してもらいたい。*1
 日本のことばかり自省しても難なので言うが、中国の反日デモに参加している学生も同じである。親のお金で大学に行かせてもらっているだけで、まだ何の貢献もしていない人間は中華思想を誇示する権利はない。4000年の歴史のご先祖様の偉業にタダ乗りしているだけである。
 では良性のプライドとは、逆に権利としてのプライドを乱用せず、義務としてのプライドを果たす人である。過去の先人の功績に泥を塗らないよう自らを律しながら、発展途上国の人や少数民族などを下に見ない。国や民族を序列付けで考えない人である。
 権利と義務を両立するのはどうかと言えば、私は自分の努力で築いた範囲で権利を行使するのは良性だと考える。自ら気付いた富や地位や名誉に対しての義務を果たしていれば権利を行使するのは良性であるということである。ただし自己評価は他人の評価より高めにでることを勘案し控えめに行使するのが美徳であろう。
 また親の遺産で富を得ている人や玉の輿に乗った人は基本的に義務だけのプライドを持つべきである。内助の功を否定する訳ではないが、やはり富や地位に見合った義務のみ負い、権利としての行使は控えるのが美徳である。
 最後に権利も義務も行使しないのは?やはり義務を負わない以上、すべて悪性である。

 実は愛国心の中の「民族としての誇り」「国民としての誇り」を考える上では、この権利と義務のプライドを避けては通らない。世界中の国を見てアイルランドのような美しい愛国心を誇る国と中国や韓国やイスラエルのように醜い愛国心が露呈する国を見ると、この権利と義務の愛国心のバランスの良し悪しで理解できる。
 私は自分のブログでネット右翼を批判することに余念がないが、それは私が左翼なのであるからなのではなく、義務としてのプライドをおざなりにし、権利としてのプライドばかり誇示する輩が目に余るからである。私から見れば、ネットウヨも中国の反日学生も韓国の愛国厨も同類でしかない。
 日本で愛国心教育を進めようとしているつくる会日本会議の先生方も残念ながら、この辺の理解が乏しく。あの主張のままでは日本も愛国無罪の歪んだ愛国心の蔓延する国になってしまう。
 

*1:ただ自分自身に誇りを持てない人ほど、それを紛らわすために自分の所属するコミュニティーや国家等にどの代替を依存する傾向があるという問題も存在する。つまり負け組みのファシスト化である。これは先進国の負け組特有の傾向で、アメリカでは1960年台からプアー・ホワイトの極右化の現象が起きている。これについては長くなるのでまたの機会に。