ただ乗り愛国者

 前回、義務としてのプライドを満たさないものにプライドを誇示する権利はないと述べた。つまり日本という国をここまで発展させてきた先人の努力に敬意を表し、先人に倣い勤勉で努力を惜しまない日本人以外は、自分は日本人だ!ということを誇示する権利はないということである。
 しかし現実には、自分自身に誇りを持てない人ほど、それを紛らわすため、或いは自分自身には諦めて、国家にそれを代替させようとするのである。普段は個人として社会生活上誇りを持てない人も、サッカーの国際試合で日本代表が勝ったり、日本人がノーベル賞を受賞したり、日本の映画が国際的に高い評価を得たり、日本メーカーの商品が世界市場を席巻したりといったニュースを聞いて、暫しまるで自分のことであるかのような満足感を得るのである。
 悪く言えば、日本という国に何の貢献もしていないで、むしろお荷物のくせに、都合のいい時だけ日本人であることを誇示するのは、ただ乗りである。しかし、そこまで言うのは酷だし、同じ日本人なんだから、まあ同じ気持ちを共有しようよと寛大に見過ごしてもいい。ただたちの悪いのは、ただ乗り愛国者の一部の差別的な行動である。
 アメリカの負け組白人、いわゆるプアー・ホワイトが人種差別的傾向が見られるのは、単にアファーマティブ・アクションに対する反発ではなく、日常の成功者、失敗者或いは上流階級下層階級といった差別からの現実逃避として、白人と有色人種といった別の対立軸を持ち出すのである。
 最近の日本におけるネット右翼らによる「在日」「部落」といった差別発言は、まさしく彼らの日常における失敗者、落伍者、下層階級といった現実からの逃避である。我々は彼らの悪質性についてもっとシビアにあるべきである。
 日本の一部の保守系文化人の中には、いわゆるネット右翼的なムーヴメント草の根保守主義の胎動として歓迎する向きもあるが、無神経である。彼らは国の恥以上の何者でもなく、そんな彼らを自らの思想の支持者として歓迎していると、大やけどを負うであろう。