宮崎勤が死んでも不安な夜は続く。

 裁判が長期化しようが、いずれ死刑判決が出るのは判っていたので、それはもういい。
問題はこの事件が「若者の犯罪」の分水嶺となったという事実だ。
 私は「なぜ人々は「少年による凶悪犯罪が増えている」という間違った情報を鵜呑みにしているのか? 」というエントリを書いたが。コメントやTBでいくつかの反論をもらった。その代表的な反論が「確かに数は減っているが、問題は質だ!」というものだ。
 では昔の少年による凶悪犯罪と宮崎事件以降の少年犯罪の質的差異は何か?昔の少年犯罪の犯人像は凡そ「典型的なワル」で、街をたむろするチンピラみたいら連中で、巷で喧嘩をしてはたまに殺し合いになる。まあこんなイメージであろう。実際にこのイメージに当てはまる犯罪ばかりではないが、世界的標準の少年による凶悪犯罪はこんな感じだ。
 昔の犯罪の質より宮崎勤事件以降の犯罪の質が悪いという一番の根拠は、被害者が少女といった弱者だからであろう。弱いもの虐めはより卑怯であるというのはグローバルスタンダードであるから、今の犯罪の方が質が悪いという理屈は成り立つ。
 ただもっと人々を不安におとしめているのは、犯罪者像が描けなくなっている点ではなかろうか。昔はだいたいどういう連中が悪いことをするのは予想がついたが、今はわからないのである。昔なら「おとなしい子」=「いい子」だったのであるが、内向的でおとなしい子が少女を殺害したのである。この事実は非常にショッキングであった。人々のステレオタイプ犯罪予備軍像を崩壊させたのである。酒鬼薔薇も親の言うことを聞く「いい子」であった。
 宮崎勤が「おたく」であると報道されれば。おたく=犯罪予備軍であるような短略的な意見がまかり通ったり、人々の脳は大きく混乱をきたした。人間は本能的に危険を回避するために「こういう人間が危ない」という先入観を持ちたいのである。先入観という言葉はほぼ100%ネガティブな言葉であるが、人間が危険を回避するための必要悪*1なのである。
 この事件が起きて17年経っても、なぜ「いい子」や「おとなしい子」が人を殺すのか、ほとんど解明されて来なかった。教育現場は未だに「古典的な悪い子」に対する重点指導だけを行っており、「いい子」や「おとなしい子」が発する危険なサインはキャッチできないでいる。宮崎勤は時期に刑場の露と消えゆであろうが、人々はステレオタイプ犯罪予備軍像を描けないまま、今日も不安な夜を過ごし続けるのである。残念ながら、「安心のファシズム」で書いた通り、犯罪発生のメカニズム解明に対する期待をしなくなり、ただ単に犯罪者が厳罰に処されればいいという諦めムードも日本でも散見されるようになった*2。大変残念な現象である。

*1:差別というネガティブな行動もこの延長にあると考えていい。

*2:なぜ宮崎勤の裁判に17年もかかった。とっとと死刑にしろという意見がブログ界でも多いが、こういう意見を言う人は原因究明をはなから期待していない、犯罪者が厳罰に処されればそれでいいという考えであろう