規制緩和とは何なのか?

 「民でできるものは民で」という平易なスローガンで国民の思考を停止させて進められた規制緩和だが、ようやく思考停止していた人々も少し違和感を覚えてきた今日この頃である。
 まず規制という言葉をもう少し分解してみた方がいい。まず規制には経済的規制と社会的規制がある。乱暴な言い方をする人は規制緩和した方がいいのが経済的規制で、してはならないのが社会的規制などと言うが、必要最低限の規制だけを行うべきなのが経済的規制で必要に応じて行わなければならないのが社会的規制と言うのが現在的問題にマッチするであろう。

  • 経済的規制
    • 必要な規制 (独占禁止法など自由で公正な市場を維持するための規制等)…①
    • なくすべき規制 (一部の者に利益を限定させる規制)…②
  • 社会的規制
    • 必要な規制 (人々が文化的で安全に暮らすために必要な規制)…③
    • ?な規制 (政治的に議論の的となるもの。場合により国民を抑圧するもの)…④*1

 必要な規制緩和はまず②の部分である。一部の事業者が利益を独占していて新規参入を阻んでいるケースである。正直言うと、建築確認業務の民間開放なぞ誰も必要などと考えていなかった。元々建築確認は③の世界である。小泉流の「民でできるものは民で」という言葉に惑わされるとすべてが混乱する。
 実は③の部分での規制緩和は、既得権益の増産に過ぎないことも明らかになってきた。つまり建築確認業務が民間に開放されても、そのノウハウを持っている人間が官の人間しかおらず、しかもお墨付きを与えるような事業は官の厳しい管理監督を受けるため、いきおい官僚出身者を採用せざるを得ない。民間開放に名を借りた官僚の天下り先確保のためのテクニックなのである。世の中には民間企業がお墨付きを与える事業、たとえば自動車教習所や資格試験などがあるが、これらが官僚の天下り先の巣窟であることは言うまでもない。
 しかしながら経済的規制と社会的規制の境界を見分けにくいのも確かだ。②の規制の典型と言われてきたのが酒屋さんであるが、酒業組合が未成年への酒類販売防止のために販売員免許の制定等の社会的規制の創設を自民党働きかけてきた。社会的規制というのは既得権者が経済的規制を維持したいがための隠れ蓑にされることが多い。更に経済的規制の法的根拠を調べて行くと、元々は必要な社会的規制であったものが、社会的規制の必要性が薄まった後もその規制によって形成された既得権益者の政治的圧力によって経済的規制として亡霊のように生き残っているものが多いのである。②と③は連続する平面上に存在し、何処から②で何処からが③かというのは微妙な問題なのである。
 そう言えば、本日アメリカ産牛肉から背骨が見つかり、再開されたばかりのアメリカ産牛肉の輸入が再びストップすることになった*2。この問題は日本人は当然の如く、国民の生命や健康を守るための③の社会的規制と理解しているのであるが、アメリカではそれにこじつけて日本国内の畜産農家を保護しようとしている②として理解され、対日強硬派議員らは報復処置を取れ等と言っているのである。②であるか③であるかは主観的要素が多いのである。
 本来なら国会の場で、微妙な境界上にある規制についての存廃を議論すべきなのだろうが、こういう微妙な議論は最近流行らないみたいで、白か黒かズバッと論じられてしまうの傾向があり、議論が不毛にする。
 

*1:これについては話が長くなるので、次回に。言論や表現の規制などがここに含まれる

*2:小泉首相中川農水相に拍手喝采を送っている人がいるが、そもそもこれだけ食の安全が問題視されている中でもアメリカの圧力に屈して安全対策が不十分な状態で輸入再開を決断を下したのが間違いであって、評価に値しない。