破壊神信仰 その2 ホリエモンと小泉

昨日のエントリーで破壊神信仰に走る若者の話をしたが。その続きである。 そもそも破壊神信仰はホリエモンに始まったことではなく、直近では小泉総理への支持が挙げられる。彼は「自民党はぶっ壊す」と言っただけで支持が集まった。破壊した後に何を創造するのかという言及もないのに、ただ「ぶっ壊す」と言ううだけで支持が集まる光景は異様で、私は激しい違和感を覚えた。

小泉支持者の特徴

 小泉支持者の特徴は、彼の破壊姿勢へのコミットであって、彼が破壊した後に創造する世界には無関心、或いは無理解なことである。彼が破壊の後に持ってきたものは欧米で使う古され副作用の強い劇薬として認定されている新自由主義であった。小泉支持者の多くは、別に新自由主義へコミットしている訳でなく、無関心又は無理解なのである。新自由主義を真剣に信奉しているのは竹中大臣の取り巻き連中などごく一部である。

若者は「破壊」に惹き付けられるのか?

 そもそも「創造」に無関心で「破壊」に惹かれること自体が「若さゆえ」なのかも知れない。かつての学生運動も、参加者の多くが難解なマルクス主義を理解していたとも思えず*1、破壊にコミットしていたことは否めない。
 さらに明治維新はどうであったか?維新の志士たちが幕府を倒した後に持ってきたのは西洋文明であった。ついこの前まで攘夷を唱えていたのに皮肉なものである。とにかく旧体制の打倒が優先で、その後に創るものは後から考えたのであろう*2

日本文化に破壊の文字はない

 これまで破壊の話をしてきたが、歴史を紐解くと、日本という国は世界でも稀な破壊がおきなかった国なのである。他国では相次ぐ政権交代や異民族支配などで過去の文化が破壊され、史跡や書物さえのこっていないというケースも少なくない。日本では決定的な文化破壊は起こらなかった。明治維新も西洋文明の表層的な部分を受け入れただで、日本が西洋になった訳ではないし、戦後のGHQ支配も日本の底流を流れているものまでは変えていない。
 それでもその時代の若者たちは、常に「破壊」に惹かれてきた。この現実はいったい何なのか?

破壊より創造

 「破壊」するだけでなく、何を「創る」かが大事だ。この意見が理想論であるのは百も承知である。決定的な新しい価値感というものは100年に一度しか生まれない偉業であり、トリビアな時代の潮流でさえも10年に一度しか生まれないのが常である。
 それでも我々は「創造」を求めなければならない。残念なことに政治が創造的な価値を提示できないでいるのではあるが……。

*1:もっともキリスト教徒が聖書を理解している訳ではないので、バイブル化=世の中をよくする答えが書いてあるもの

*2:志士たちは個々には理想とする世界があったが、世界情勢からとにかく西洋文明を受け入れて近代化するしかなかった