魂の労働

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

 著者の渋谷望氏は映画や音楽に造詣が深く、この著作の後半で、それらの知識を織り込みながらネオリベラリズムについて切り込んでいるので面白い。

 製造業の仕事が消失し、代わって創出された雇用は低賃金の「サービス労働」である。店員、守衛、メイド、データ処理、セキュリティ・ガード、ウェイトレス、料理人等、その多くは不安定なパートタームであり、社会保障も僅かしかない。
(1997 ロビン・ケリー)

金銭的にも心理的にもやりがいのある賃金労働の機会が減ってゆく脱工業経済において、アートとパフォーマンス−必ずしも労働とみなされない労働形態−は、仕事がなかったり、低賃金のサービス労働に代わる選択肢として徐々に可視化されるようになる。

彼らはメディアによって「労働意欲」や「労働倫理」を欠いた無気力な怠け者のレッテルを貼られるが、この表象は「勤勉」が従来の賃金労働への従事を意味しているときだけ成立する。実際、進取の精神も労働倫理もインナーシティの多くの若者に欠いていない。
 映画『ジュース』で黙々とDJスキルを磨く「勤勉な」主人公の姿を想像して欲しい。

 1997年のアメリカのインナーシティの若者についての研究を引用している。日本とアメリカの文化の差はあれ、現在の日本の問題に酷似している。
 この頃日本はまだ新自由主義やニューエコノミーが特効薬のように謳われ、規制緩和による社会のサービス化が叫ばれていた。有識者や政治家は社会のサービス化が労働者の低賃金化とパラレルであるか知っていて知らぬフリをしていたのである。そしてマスコミは正社員をパートに置き換える経営者を経営力のある経営者として持ち上げたなどである。
 知っていても、この頃はニューエコノミーの胡散臭さを批判する人間は、規制緩和に反対するオールドエコノミーと同一視され、守旧派のレッテルを貼られたのである。
 日本は今、一周遅れの新自由主義コースを走っているが、アメリカやイギリスで起きた様々な弊害はあまり紹介されない。そしてそれを口にする人に守旧派のレッテルを貼る雰囲気もまだ収まっていない。くだらないレッテル貼りを止めないと、若者に続きまた犠牲者を生むことになる。既に次の犠牲者は決まっているのであるが。
 そして政府はいまだに子供騙しの「ニート」「フリーター」「待ち組」のような話をしている。はっきり「われわれは経済界の利益と景気回復を優先する。犠牲者が出るのは仕方ない」と本当のことを言うべきでないか?中国の先富論みたいなもので、先に企業の利益が回復して、その後労働者の待遇を良くしましょうという意見も、我慢強い日本人には意外と受け入れられるたりする。