おたくとは何かⅡ……おたく黎明期と小学生文化/中高生文化……

 前回の「おたくとは何か」id:kechack:20060226というエントリーで多くのブックマークをいただいているが、私としては何か消化不良である。最後に「フォロワー」という存在を思い出し、最後無理矢理フォロワーはオタクに非ずということにしたのだが、何か未消化である。そもそもフォロワーという存在を私はここ10年忘れ去っていたのだが、オタクとの関係で非常に重要な気がしてならないのである。

ガンダムと小学生時代

 私の小学生時代というのは完全にフォロワーであった。これは私が帰国子女で、ときかく周りの友達と話題を合わせることに必死になっていたという特殊事情によるものなのか、子供文化に見られる普遍的現象で、今の小学生でも見られる現象なのか?
 小学生時代の私は、スーパーカー消しゴムが流行り出したら、駄菓子屋に走り、ガンダムが流行れば朝早くからプラモデルを買うために並んだ。小学生文化においては、このブームを誰より早く教室に持ち込む奴がヒエラルキー上位であり、私は遅れてブームに飛びつくが、誰より詳しくなる傾向にあり、ヒエラルキー的に下位に置かれていた。私はブーム中盤期にはクラスで博士と呼ばれ一目置かれるのであるが、ブームが去ると目もかけられなくあり寂しい思いをすることの繰り返しで、なぜ流行りというものがあり、それに翻弄されなかればならないのか?好きなものをずっと好きでいられないのか?という理不尽な思いをずっと抱き続けてきた。
 私は今でもガンダムとかは結構詳しく「80年代オタク文化経験者」というコミュニティーにエントリーもしているが、私は決してガンヲタという意識はない、あくまでもフォロワーとしてガンダムに接したに過ぎない人間だと思っている。

中学生文化におけるヒエラルキー

 私が中学生になった頃にはまだ「おたく」という言葉はなかったが、趣味対象に明確なヒエラルキーがあることを感じずにはいられなかった。中学時代私は鉄道研究会に所属していたのだが、明らかに鉄道はヒエラルキー下位の趣味と認識されていたのである。ヒエラルキー下位の趣味対象には他に「アニメ」等があったが、それらの趣味対象に共通するのは小学生文化の残影と理解されていたからである。当時中学生男子の間では。「アニメ」や「鉄道」というものは小学生の時に卒業すべき趣味対象として理解されていたのであった。このヒエラルキーは80年代以降少し変化は見られるもの、オタクと非オタクを分離する価値判断の一つとして現在でも無視できない。

ミーハーからオタクになった対象物「アイドル」

 私の中高生時代は今で言うアイドルヲタであったが、当時はそういう認識はなかった。当時アイドルに夢中になる生徒は俗に「ミーハー」と呼ばれた。ミーハーと言うのは典型的なフォロワーに与えられる称号で、流行に身を委ねる人々のことである。アイドルが歌う歌を俗に「流行歌」と言うことからもわかる。
 80年代の中高生に絶大な影響を与えたのがおニャン子クラブである。現在のアイドルヲタの文化的源流と言われているだけあり、おたく文化の総本山と思われがちであるが、現在再発売されている夕やけニャンニャンのDVDで番組を観覧している中高生を見てもわかる通り、決しておたくのためだけの対象物ではなかったのである。それは五十嵐貴久の「1985年の奇跡」を読んでもわかる。坊主頭の野球部員が「新田がいいじゃん」とか言っていた訳である。クラスの悪そうな奴、運動部の奴といったスクールカースト上位の生徒をも虜にしていた意味で、現在のハロプロAKB48とはかなり状況が違っていた。
 1986年後半、おニャン子クラブの人気に翳りが見えてきたのであるが、この時期にある意味、おたくと非おたくの境目が明確化してきた。この頃になるとおニャン子に飽きてきた生徒と変わらず夢中になり続ける生徒が二極化し、私は「オリコン」「明星」「DUNK」「BOMB」「ORE」といった雑誌を毎月購入するかなりコアな行動をする後者のグループに身を置いていた。1987年までにはおニャン子と言うか、いわゆるアイドルに夢中になるような生徒は「おたく」と言われるようになっていた。

フォロワー文化の落し物としての「オタク」

 当初フォロワー文化の対象物が時代に取り残されたものがオタク文化の対象である例はアイドルばかりではない。例えばプロレスがそうだ。プロレスは私が小学生の頃は男の子の共通言語として不可欠なアイテムであった。あの頃は新日も全日もゴールデンタイムにプロレスを放映しており、翌日の教室は昨日見た技を真似ようとする児童たちで教室はリングに様変わりした。しかし80年代後半にはプロレスは深夜に放送されるマイナー文化に転落し、教室の隅で一部のプロレス好きがプロレス雑誌を回し読みするに過ぎない状況になっていた。
 フォロワー文化の落し物を嗜好することは、流行遅れの人という偏見が伴う為、小学生文化の残影を追う人と同様にヒエラルキー下位に置かれる傾向がある。

フォロワーの崩壊

 高校生(あるいは大学生)以下には以下のようなヒエラルキーが存在する。

  1. トレンドリーダー(流行を持ち込む人。少し高い年齢の趣味領域に手を出す人)
  2. フォロワー(ミーハー)
  3. オタク(小学生文化やフォロワー文化の残影を追う人)

 しかし大人になるに連れ、フォロワーの地位が低下する。流行を追う態度が次第に格好悪いと思われるようになる。オタクの中でもキモヲタは這い上がる余地はないが、オタク層の中でも洗練性を認められた層はフォロワー層より上位に見られようになる。
 そして90年代以降、携帯電話とインターネットの普及がフォロワーに決定的ダメージを与えた。友人との連絡が容易に行えることになったことから、より気の合う、話の合う人と選んで付き合うことが可能となった。そしてクラスメイトや職場の同僚といった日常的な行動範囲の人と無理して話を合わせたりする必要性が低下したのである。そして共通言語維持のために無理して人気ドラマを見たり、流行歌を覚えたりするような労力が不要になったのである。
 そしてそれまで自分と同じ趣味の人間が存在するかもわからないようなマイナーな趣味対象であっても、インターネットで容易に同趣味の人間を探すことができるようになり、おたくが細分化されていったのである。
 フォロワーが崩壊したことにより1と3が残ったのだが、そもそも1も3もマイペースで自分のスタイルに拘るという点で似ている。ただフォロワーが尊敬するのが1で、軽蔑するのが3であるという差が両者の立場を両極端に追いやっていたのである。フォロワーが崩壊したことによりこの両者が微妙に共存することになる。

モテか非モテかという基準に併せて

 小学生文化やフォロワー文化の残影を追う人の子孫がオタクであるというのも一つのオタクの定義の仕方である。現在ではその子孫の中でも洗練化し、トレンドリーダー的な大人の趣味と同化しためのもあり、10年後には定義づけが困難になるかも知れない。
 だた、前回のモテか非モテかという基準に併せて有効な判断基準であると思う。