そもそもなぜ「愛国心教育」が期待されるのか?

安倍次期総理が盛んに教育基本法改正を口に出すようになった。安倍晋三の目指す「愛国心教育」に相当の潜在的支持があるのは否定できない事実でもあるが、なぜだろうか?
 そもそも日本が教育立国であったことが大きく、教育を変えれば国が変るという「教育神話」が存在する。日本が明治以来、「百姓に学問はいらねぇ」「商人は読み書き算盤ができれば十分」と多くの庶民が思っていた時代から義務教育を推進し、日露戦争の頃には6年制義務教育の就学率が97%にもなった。この底堅い一般庶民の教育レベルと「国家」という概念を一般庶民までに浸透させたことが富国強兵に大いに役立ったのは周知の通りである。他のアジア諸国は、目先の利益を優先し一般庶民の教育政策を怠ったために、列強の植民地と化したとも言える。
愛国心」が否定された戦後でさえ、人々はそれを「愛社精神」にすり替え、企業戦士となり必死に働き、高度経済成長を実現した。そして突出したエリートは少ないが、中庸な学力を持った大量の準エリート層や凡才が実質的な原動力になっていった。
 80年代以降、豊かさを手に入れた瞬間に、何か求心力が消えた。実際には、「日本型経営は古い」みたいな世論が勃興し、グローバル化のもとアイデンティティを自滅させたと考えるのが正解でろう。
 アイデンティティ・クライシスに陥った今、「よくわからないけど求心力のある何かが欲しい」という枯渇感を多くの日本人が抱く。
愛国心」というキーワードは「おいしい水」に見えるのである。そして枯渇し思考停止した脳には、この水さえ飲めば、現代起きている様々な問題は解決されるだろうという錯覚までもが共有されるのである。
 国民の愛国心が高まれば治安が良くなる。みんなが一所懸命勉強するようになる、働くようになる。企業倫理が高まる。漠然と疑いもなくそう思っている人が実に多い。本当であろうか?
 既に若者たちの間でナショナリズムが不満のはけ口になっているのは周知の通りである。下手をすれば精神的な逃げ道を提供するだけという事実は既に現在目の前で起きているのである。なぜそれを知ってみな知らん振りするのであろうか?「愛国心」そのものを否定するつもりはないが、その健全性の担保と、特効薬であるとの神話を捨て、個別の問題は地道に個別に対応する努力を怠っては何の意味もない。