いじめの政治性

 最近いじめに関するエントリーが非常に増えているが、一般論、きれいごとの域を出ないものが多く、読むに足らない。
その中で「シロクマの屑籠(汎適所属)」氏のエントリーは秀逸であった。


・敵の明確化といじめの正当化

 しっかり醸成したいじめシステムの場合、いじめ首謀者(とその強い影響下にあるクラスメート)はいじめられる側の何らかの属性にかこつけて被害者をクラスの敵として明確化し、いじめが正当化されるような構造ができあがることもある。理解されにくい言動の者・臭い者・みてくれの悪い者・クラス内で主流を占める価値観に迎合しない者、などなどの属性は、「クラスの敵」「いじめても構わない奴」としての焼印を押すのにさぞ好都合だろう。こうした何らかの属性を被害者が持っている場合には、「いじめられても仕方の無い奴」という空気が醸成されやすく、そうなるといじめへのブレーキは非常に弱いものとなってしまう。

 これはまさしくメディアと政治が融合した現代政治そのものである。アメリカ現代政治などは、戦争をすることにより為政者が国民から高い支持を受けるという構造が出来上がっている。「いじめ」の場合はまず「いじめという行為への欲求」がまず先にあり、その正当化行為として「正当化されやすいスケープゴート探し」が始まり、結果としていじめっ子に対する支持ムードが醸成されるのに対し、現代政治は「国民の支持を得る」のが目的でそのために「適当なスケープゴート探し」がはじまり。結果的にいじめが行われる。卵が先か鶏が先かの違いだけで構造は同じである。
 日本の政治においては、戦争相手の「タリバン」や「フセイン」を「抵抗勢力」「守旧派」「公務員」「労働組合」に置き換えればいいだけである。為政者が叩けば叩くほど国民は熱狂的に為政者に拍手喝采を送る。
 「いじめられても仕方の無い奴」というのは権力者にとって実に便利な存在だ。民間企業においても90年代に盛んに行われた労働法規違反の人員整理(いわゆるリストラ)。これも多くの企業で対称にされたのが、会社内でお荷物扱いにされ給料泥棒などとレッテルを貼られた社員である。こういう人達が対象にされている内は、多くの社員はリストラを進める人事部を暗に支持し、労働組合さえも黙認するのである。
 子ども達のインタビューやアンケートでよく「いじめられる方が悪い」という答えが出てくる。それに対し大人たちは眉をひそめるが、大人たちは「今の子供は恐ろしい!」みたいな顔をできるのか?子どもたちの「いじめられる方が悪い」という思考は大人の世界と同じ構造から生まれているのであるから、それを子どもの世界の特異な現象と矮小化する態度こそ「いじめ問題」の本質から逃げ、問題解決を困難にしている元凶である。
 「いじめ問題」の話は、どうしても最後は「どうしらいじめはなくせるか」という話をしないといけないが、「スケープゴート探し」をする社会にメスを入れるという極めて困難な課題*1に立ち向かうのか、とりあえず「スケープゴートにならない」という対処両方で当面のリスクを回避するのかという問題になろう。結局、人間の能力の限界からして「スケープゴートにならない」という対処両方で当面のリスクを回避するのという選択肢しかないのであろう。

*1:メディアや政治のあり方を根本的に問い直さなければならない