西部邁 保守の未熟が「差別」を招来する

私は西部ファンでもないし、どちらかというと批判的な立場を取ることが多かったのだが、この人の思想というのはある意味スジは通っているとは思っている。基本的に左翼から転校して右翼になった人は、藤岡信勝や小林正など、左翼のいやらしさと右翼のやらしさを両方兼ね備えた最低人間が多いのだが、西部だけはまともだと思っている。
 まず、この人の論説を読む前に、以下の点を留意されたい。

  • アメリカは左翼である。西部に言わせれば、アメリカは新興国で、アメリカ的な思想はすべて進歩思想=左翼である。日本やヨーロッパなど伝統の存在する国でしか、保守主義は存在できない。

 産経新聞は西部氏の論説を載せるのはいいが、アメリカ主義を賛美し、企業優先の経済政策を賛美し、弱者救済を社会主義だと批判し、そのような政策は左翼だと批判してきたのは、何よりも産経新聞ではなかったのか?
 「平等」という価値観は、とかく右派からは徹底的に嫌われ、まるで右派ならば競争賛美の立場を取らなければならないか如き風潮の醸成に貢献してきたのが産経新聞である。
 しかも戦後の日本の保守政治は日本社会の地縁・血縁や系列のいったしがらみを積極的に温存し、その結果、「機会の平等」が実現できない分を「結果の平等」で補ってきたのである、その総括もないまま「結果の平等」を批判してしまっては、とんでもない格差社会が到来するのは明白であったはずだ。
 あいにく、そのフジサンケイグループが、競争至上主義の寵児であるホリエモンにしてやられたのは何とも皮肉である。産経新聞が西部の論説を載せたあたり、ホリエモンにしてやられたやっかみみたいなものも感じる。
 保守主義者によって「平等」という価値感が酷く蔑まれ、日本がおかしくなった点については、私も昨年12月のエントリー『「おててつないで仲良くゴール」にみる90年代のネオリベと民族派…』で言及している。

■自由と秩序、平等と格差の平衡を 反歴史のアメリカ流≫
 生活保護費に近い収入しかない者たち(貧困層)が二千数百万人もいる。そのうち半数は不正規の勤労者だという。このような現代日本の経済的な「格差」から、政治的・文化的な「差別」すらもが生じる気配でもある。
 しかしこの差別の兆候は「機会の平等」の下での「自由競争」を礼賛する(平成改革に特有の)偏った社会正義がもたらしたものだ。だから差別社会を批判する資格が今の日本人にあるはずはない。批判さるべきは「結果の平等」を軽んじ、「規制のとれた競争」を排せんとする自由民主(平等)「主義」の観念についてであろう。このアメリカ流観念は、理想の次元においてのみ肯定されるものにすぎない。現実の次元には、歴史の産物としての「秩序と格差」が存在する。そしてその現実は、歴史の連続を多とするかぎり、民主制や競争制によって急激に変革されてはならないのである。
 それを急激に変えんとする誤謬に陥ったのが近代「主義」(別名左翼主義)であり、その急進的変革を個人主義にもとづかせたのがアメリカ流である。そしてアメリカ流で際だつのが「既得権益」への批判であり、その脈絡で「結果の平等」が(弱者の既得権益として)難詰され、平等を(競争制の活発化のために)「機会の平等」に限れと主張されてきた。
 ≪自由・平等の自己否定≫
 しかしアメリカ流は大いなる錯誤に立脚している。まず、既得権益に支えられぬような文化はあった例がない。次に、人々のあいだにある程度の「結果の平等」が保たれていなければ、劣位にある者たちが競争に実質的に参加できなくなり、そうなれば競争制そのものが社会的承認を得られない。J・M・ケインズの次の言を想起すべきだ。
 〈既得権益の力は、観念による(人間精神への)漸次的な侵略に比べて、途方もなく誇張されている。危険なのは既得権益ではなく観念のほうである〉
 平成改革が過剰格差つまり差別の構造という危険な状態をもたらしたのは、自由・平等の観念の前にひざまずいたからだ。歴史的所与としての秩序から遊離したような自由は、かならず放縦に舞い上がる。その無秩序に誰しも耐えられず、で、秩序回復の動きが始まり、その動きが加速されて抑圧がやってくる。つまり自由が抑圧に逆転する。
 歴史的な所与としての格差から切り離された平等も、間違いなく画一に凝り固まる。その不自由にたまりかねて、人々は格差の再現を望み、その動きが暴走して差別が招来される。つまり平等が差別へと逆流していく。
 要するに、自由・平等の(理想主義的な)観念は、現実とのかかわりで平衡を喪失するのが常なのである。卑近な例でいうと、規制緩和の自由「主義」は−無秩序を統制するのが役人の仕事なので−役人支配を強める成り行きとなった。機会平等「主義」も−市場原理主義のせいで弱肉強食のありさまとなったため−差別現象を引き起こした。
 ≪「活力・公正」が徳義≫
 国民にあって、自由を発揮するのも活力だが、秩序を維持するのも活力である。そうならば、理想の自由と現実の秩序のあいだを平衡させるのが真の活力だと見定めなければならない。同じく平等という理想と格差という現実のあいだを平衡させるのが真の公正なのである。歴史感覚のある者は「活力と公正」、それを徳義の体系の頂点にすえなければならず、そうするのが保守思想の基本でもある。それは、アメリカ流の個人主義派と旧ソ連流の社会主義派という左翼主義に対峙している。それのみならず、秩序・格差の現実のなかに浪漫を幻想するような右翼主義ともはっきり隔たっている。
 保守思想は戦後日本においてあまりにも微弱であった。したがって、活力・公正の徳義が日本国民の伝統なのだという理解が薄らぐばかりとなった。この挙げ句「自由・民主(平等)は日本共通の基本価値」(安倍首相)という思い込みがこの列島にとりついたのである。こうした観念の錯乱こそが、今の日本に差別社会のごとき醜い相貌を帯びさせつつある。
 政治家や経済人は「実利で生きているので観念のことはあずかり知らぬ」というのかもしれない。だがここでもケインズがいってくれている。
 〈いかなる知的な影響も免れている実際家たちも…三文学者から…錯乱じみた考えを抽出している〉
 喫緊に必要なのは、保守思想の再発見にもとづいて「活力と公正」の徳義を高らかに提唱することではないのか。