なぜ日本では「競争」を導入しても社会が活性化しないのか

「結果の平等」を批判し、競争による社会活力の活性を主張する人の意見は、つまり「平等は怠惰を招く」ということです。確かに社会主義における結果の平等を重視した社会で、人間の向上心や勤労意欲を奪い、社会停滞を招き、結果的に体制の失敗という評価が為されました。
 日本においては、90年代後半以降、企業部門では年功序列賃金システムから成果主義システムに移行、政策的には累進課税の緩和という形で、急激に結果の平等を抑制する方向に進みましたが、国民の労働意欲や向上心は向上したでしょうか?多くの人はむしろ低下した印象を持っているでしょう。
 競争が活力を生むということを実社会で具現できなければ、この主張は何も意味はありません。競争論者は、いま現実社会で起こっていることを直視した上で、なぜ社会が活性化しないのか理解した上で競争を主張しなければ、競争論は観念論に過ぎません。
 もちろん、これを以て競争社会は意味がないという結論に至るのも拙速ではあります。私は競争論者ではありませんが、敢えて競争論者に代わって、なぜ競争を促しても社会が活性化しないか、いくつか理由を挙げてみたいと思います。

教育界との齟齬

 日本の教育は受験戦争に象徴されるように極めて厳しい競争下におかれているとも言えます。一方で日本社会は世界でもっとも職種、業種間の賃金格差が小さな社会でもありました。つまり、日本の子どもはほんのわすに高い生涯賃金を得るために、血眼になって勉強してきたのです。例えば日本の高卒と大卒の生涯賃金の差は世界でもっとも小さく(今でもそうかは不明)、2浪したら大学を卒業しても高卒の生涯年収を下回ると言われてきました。それでも不思議なことに2浪しても大学に行こうという人が大勢いるのです。
 現在は、業種間職種間の賃金格差がかなり大きくなっています。高卒でも新卒時にそこそこいい就職をすれば、今でもそこそこの生涯年収を確保できますが、大したスキルを身につける前に退社してしまったり、それこそ高校を中退してしまったら大変です。経済界は低賃金労働者を喉から手が出るほど欲していますから、社会の餌食となって一生社会の底辺を彷徨うことになりかねません。
 教育界が競争一辺倒なのは受験エリート校など一部の話で、底辺校はかなりのんびりしています。かつては競争に敗れたり、競争に参加しない人でもそこそこの暮らしができた日本でしたから、それでもよかったのかも知れません。一歩間違えば地獄の現代日本において、学校がどればけリスクを教えているかかなり疑問です。こういう仕事にしか就けなかったら、これだけの賃金しかもらえず、こんな悲惨な人生が待っている。職業に貴賎なしの美名の下、こういう生々しい話を教育現場は避けているのではないでしょうか。
 子どもは学校教育で厳しい現実を知らされないまま、社会に出たら「話が違う」という現実に直面するのです。なかには現実を知っていたら、もう少し事前に努力したかも知れません。ただ事実を知ってからは手遅れで、今日の食い扶持の確保に追われて勉強をし直す余裕などないのです。競争社会が激化しても、底上げが為されない構造はここにあります。
 もちろん、子どもたちに現実を教えることは、現実を追認することにもなり、やるせない面もあるでしょう。競争主義というのは、ある意味敗者というスケープゴートの存在の上に成り立っていて、そこから逃れたい強迫観念が生じてこそ、社会の活力や向上心が生まれる訳です。このいやらしい構造がいやだという考えもごもっともであります。やたら「美しい国」といった美辞麗句を並び立てる為政者にしても、競争社会の醜さは本来相容れないものでしょう。

「機会不平等」の放置

 現代の日本には、様々な「機会不平等」が温存され、そのような状況下では、競争で敗れたものも、自らの実力不足より、「機会不平等」の方に目が行き、冷静な受け入れができません。このような状況での格差拡大は社会不安が拡大されるだけです。
 まず、政治家が率先して機会不平等を実践しているのが現実です。政治家の息子は、盆暗なまま縁故で私学に入り、縁故で就職して、悠々自適なせ生活を送っている訳です。競争により社会を活性化すべしというネオリベに傾斜した政治家も、多くの場合は機会不平等の解消に消極的で、はっきり行って特権階級が特権階級のままより優遇される政治を実践しているに過ぎません。
 ただ、私も「機会の平等」の実現がセオリーであるかはいささか疑問を持っています。地縁・血縁による扶助というものは、日本の伝統的扶助システムであり、これによって公的扶助のための財政支出が抑制されている面もあるからです。一族郎党のなかで、なかなかうだつの上がらない盆暗息子がいたら、一族の中で成功しているおっさんが救ってやる。それはそれで私的な福祉としての側面は過小評価できないところがあります。