農業問題を農民の問題にする消費者エゴ

 最近、都市部の消費者の農民バッシング的な言説を聞くと無性に腹が立つ。
腹が立つのは、農民の味方をしたいというより、余りにも無知・無理解が甚だしいく、無責任だからだ。
 消費者と生産者をまるで対立構造にあるように煽る言説は80年代後半から目立つようになった。なぜか政治評論家やマスコミが急に「日本の消費者は高いものを買わされている。」「消費者は主張すべきだ。」的な消費者利益を持ち出し、補助金で農民が濡れ手で粟の如く利しているようなバッシングが増えたのである。
 背後にアメリカと日本の財界・マスコミがあった。アメリカの外交戦略は巧妙で、「パブリック・ディプロマシー」という相手国の世論を直接喚起する手法も多用される。アメリカは日本に牛肉・オレンジ輸入自由化を迫る際、政治的な圧力と同時にこの手法により日本の財界・マスコミを利用して「消費者利益」「消費者と生産者の利害対立」を宣伝したのだ。それまで財界は社会主義勢力から日本を防御するためにも自民党の絶対的支持基盤である農業関係団体と友好関係を保つ必要があった為、利害を表明化させることはなかったのであるが、社会主義の崩壊が見えてその必要性はなくなり自らの利益追求さえ貫けばよくなった。また都市住民の多くが農村出身であったことから、都市住民から自然発生的に農民批判が起こることは余りなかった。都市の消費者と農村の生産者の対立構造の発生には相当の「煽り」があったことを指摘したい。
 日本の農業問題が何の解決もなく深刻な状況に追い込まれている現況は、20年前にばら撒かれた「対立構造の煽り」である。日本の過去の農業政策が失敗で、補助金を強請るような態度を示す農民がいたのも事実だが、それを20年間糾弾し続けても何も解決しなかったのである。私は農業問題を「農民の問題」と片付けて、農民を批判するだけで思考停止している消費者にこそ非があると思う。対立構造に毒された消費者はよく「農民のエゴ」という言葉を使うが、むしろ農業問題を「農民の問題」と片付けた消費者のエゴを問題視したい。
 都市の消費者の日本の農業への無知・不理解は20日NHKで放送された「ライスショック」を見ても明らかだ。「日本の農業を効率化して外国の安い農産物と競争できるすればいい」等と考えている人が実に多いのである。これは一般の人だけでなく、政治家や経済学者でさえその程度の認識である。彼らは日本の農業規模がアメリカやオーストラリアのせいぜい1/5程度だろうというイメージで捉えているのである。実態はアメリカは日本の140倍、オーストラリアに至っては2000倍以上もある。政策で大規模化を誘導しても現実的に可能なのはせいぜい2〜3倍であろう。また、現状では大規模農家であっての生産方法は小規模農家と大差なく、稲作で言えば田植機とバインダーを使っており、その差は機械の大小程度だ。本気で価格競争をするなら、直播や航空機やヘリコプターの利用した農業も視野に入れなければならない。そのためには民家や道路、送電線などの移設など大規模な投資が必要な上。平野部以外では不可能、単位面積辺り収穫高を犠牲にして労働効率を重視するために自給率は確実に下がることを認識しなければならない。
 都市の消費者は知らないだけで、少なくとも外国と価格競争するという話が愚論であることは、事実を知れば理解できるはずだ。可能性としては品質での差別化しか残っていないことがわかるが、それは日本の農業のセオリーになっている。恐らく、日本のコメ農家は政府の農業政策にかかわらず、一部のやる気のある農家だけ残り、それ以外は後継者がなく絶えるであろう。まさに、財界や経済学者がよく言う通りになるはずである。しかしそれは、コメに関しても料亭や高級レストラン・富裕層向け=国産米、その他大衆向け=輸入米というような牛肉のような構造になるという話である。
 でも、それでいいかは実は生産者の問題より消費者の問題ではないか?食料は自給しなくても結構という識者は、自らリスクを負うことを覚悟し、有事の際は農産物を経ち、化学合成されたビタミン剤か道草でも食べて生きることを宣言すべきではないか。