右傾化しても何もいいことがなかったプア。

 若年弱者が右傾化した90年代前半。このような現象は日本ばかりでなく、世界的に見られる。ただし外国の場合は安い給料で働く外国人労働者に仕事を奪われることによる外国人排斥的運動が引き金になるが、日本の場合は直接そのような動機はない。基本的には憂さ晴らしだ。日常的に自己を否定するような、成功者−落伍者、高学歴−低学歴というヒエラルキーから逃避するために、日本人−外国人、男−女というヒエラルキーを持ち出してそこに逃げ込むのである。
 現代社会では前者のヒエラルキーによる差別に直接的違法性はないが、後者による差別は厳しく糾弾される。彼らには、学歴で差別されるのは許されて、民族で差別するのはいけないというのが解せないのである。それで、さらに進歩的なインテリゲンチアへの憎しみが募る。
 また本来弱者の受け皿になるべき労働組合が既存組合員の利益を優先しは若者に冷たかったことが、若者をナショナリズムに駆り立てた。
 また弱者が体制を支持するという現象も多くみられた。政権与党を支持することで、社会的に阻害された立場である人間でも、なんとなく国の中枢に与している気分になれるのである。
 ただこのような現象もそろそろ過去の話になろうとしている。右傾化した弱者がいくら保守論客や保守政治家にシンパシーを感じても、論客は政治家は彼らを認めようとはしなかった。ワーキングプアの問題を個人の意欲の問題に矮小化し、教育改革を行えば諸問題が解決するような詭弁を張った。そして彼らを教育を以って厳しく鍛え直す対象としか見做さなかったのである。
 政権もネオリベラリズムを邁進し、弱者に厳しい政治を行った。ネオリベラリズムにおいては敗者は必要な存在である。低賃金で労働力を提供するとともに、“努力しないとこんな惨めな目にあう”という強迫観念を植え付けるために必要な晒し者なのである。
 90年代の労組も冷たかったが、保守派やネオリベラリストは冷たいどころか、牙を剥く存在でしかなかった。誰が本当に希望に救いの手を差し伸べることができるのか?