空気悪玉論に反論する。

 昨年12/29のエントリー(id:kechack:20071229)『現総理も前総理も「KY」なのが問題ではない。』でid:I11氏より以下のようなコメントをいただいた。

パブリックサーバント, 政治家, プロパガンダ, KY 空気を作るっていうのは要するにプロパガンダに長けているということ。ではゲッベルスが最良の政治家なのか? それは違うだろう。空気こそが危険。良き政治家は良き民衆の奴隷であるべきだ。

 まず前提として考えなければならないのが、空気を作る可能性があるのは政治家だけではないということである。政治家が煽動しなくても、マスコミが煽動したり、自然発生的な空気がネットを通じて膨張する可能性もある。
 民衆が常に良き民衆であるとは限らない。
 また空気が常に危険とは限らない。自由民権だって大正デモクラシーだって一種の空気だ。歴史を見ると、世の中を知らず閉塞した現状の奴隷となっている民衆に、時代の旗手が新しい空気を運んで民衆に希望を与えてきたのである。
 空気を否定すれば、危険な空気に汚染されるリスクも回避できるが、新しい空気で時代を変えるチャンスも逃す。そのような現状維持を望む思想は狭義の保守主義と呼ぶのであろう。
 そもそも民主主義という体制こそ、危険な民意がマジョリティになるリスクがあることを承知で、メリットの方が多いと享受されている体制である。
 大事なのは民衆が危険な空気、誤った空気に触発されないことであって、空気を遮断することではない。空気のない真空状態こそ危険な空気が入り込む余地のある危険な状態であり、よりよい空気を政治家は発するべきであるし、我々民衆も政治家やマスコミに触発される前に自らよい空気を発すべきではないか?