「国際競争力」の今日的意味

 「国際競争力」といえばかつては泣く子も黙るポジティブキーワードであったが、昨年1年間で嫌悪感さえ抱かれるネガティブキーワードに暴落してしまった。特に財界人や御用経済学者がこの言葉を使用する時に激しい嫌悪感を抱く人は多いだろう。何しろ「いざなぎ超え景気」が続いている間、財界は「国際競争力の維持」を錦の御旗に賃上げを拒絶し続け、労働分配率を漸減させ続けてきたのであるから。内需の弱さが日本経済の足枷になっているとの批判を受けて慌ててようやく最近賃上げ容認に転じているが、何を今更である。
 それでも尚、この言葉を錦の御旗の如く使い続けられるのはなぜであろうか。
 一番酷いパターンが経済の奴隷になっているケースである。本来、人民に幸福をもたらすために存在する経済が、手段が目的化し、目的であったはずの経済力を維持するために人民が我慢しろという話を真面目に語りだす人達のことである。経済学者や財界人、日経新聞の記事の一部このようなにおめでたい経済奴隷主義が散見される。
 一番多いのは、未だに高度経済成長期の体感が抜けてケースであろう。戦後輸出立国として成長した我が国は、製品の国際競争力が増すことが企業利益となり国益となり国民所得の倍増を意味した。長い間「国際競争力」という言葉は無条件にポジティブに受け入れられていたのである。特に団塊の世代でこの言葉の肯定感が払拭できない人は多いが、当時は品質・商品力が「国際競争力」の源泉で、今日では「労働コスト」を源泉としている点を気付かずに肯定感を抱くのはいかがなものか。
 もう一つは30代後半から40代の人に多い、経済ナショナリズムに感化されているケースである。北田暁大等が唱えている説だが、日本でナショナリズムは90年後半に急に勃興したのではなく、90年代前半以前の経済ナショナリズムの存在基盤が失われ、結果的に民族的なナショナリズムが勃興したというものである。私もある意味経済ナショナリズム世代かもしれない。日々日経新聞に踊った経済指標で日本が世界一になったという類の記事を読んでは、日本人であることの誇りと実生活の豊かさが相乗し、悦に入るのである。当時は日本人が民族的にどうだとか、戦前の話を持ち出して日本人は勇敢だった等という話をわざわざしなくても、多くの人が日本人であることの誇りに満たされ、ヘンテコなウヨクが出現する余地などなかったのである。この時代は「国際競争力」という言葉は輝きに満ちており、その感覚が忘れられない人も多いのであろう。