左派ブロガーの極端な改革アレルギー

 最近「改革」という言葉に過剰な拒否反応を示すブロガーを多く散見する。もちろんここ数年はエセ改革者がチープな改革論を振りかざして、散々日本を荒らしたのは事実だ。ただ「改革」と名のつくものはすべて悪なのであろうか?これは「バラマキはすべて悪である。」と信じて止まない改革論者同様、言葉ジリの俘虜に成り下がった人々の断末魔に見えてならない。
 特に目に付くのが「改革」という言葉に過剰に拒否反応を示す左派ブロガーの存在である。保守主義者で、例えば西部邁のように「進歩」や「改革」「革新」という態度そのものを批判するのであれば、それはそれでスジが通る。日常的に左翼やリベラル派に共闘を呼びかけるような立場を取りながら、極端な改革否定に走るような態度は理解に苦しむ。元々、左派は「生活を改善したい」というような改良主義を基盤にしており、「改革」を否定した段階で左翼であることを辞めるべきだと思う。平和や人権を大事にする新しいタイプの保守主義を名乗った方がいい*1
 私は55年体制末期の頃はまだ中学生であったが、あの頃の政治的雰囲気は少し覚えている。選挙で野党の投票する人たちが何より憎んでいたのが自民党の利権や土建政治だ。もちろんこれは都市部リベラル層の独特の空気かも知れないが、その時代の空気を伝えたかったのが1/25のエントリーだ。

 小泉改革で政治に目覚めた人にとっては、左翼こそ既得権益なのであろうが、それは左翼団体が既得権益なだけであって、80年代になんとなく左翼の立場を取っていた人は、まだ「既得権益と戦おう」という意気込みがあった。
 最近のアレルギー持ちのサヨクは、そのような態度まで「新自由主義的だ」と批判する。都合の悪いものは何でも「ブルジョア的だ」と批判した70年代左翼がゾンビのように復活したのであろうか?

*1:北欧右翼みたいな感じか?