倖田來未擁護発言を考える

 倖田來未バッシングを過剰反応として倖田を擁護するコメンテーターがいる。

 勝谷誠彦が擁護に回るのは想定内だ。彼こそ私が2/3のエントリーで言及した「ホンネ射精型オナニー」を具現している人だからだ。かれの場合はオナニーというより普通の人なら躊躇する過激な発言をし、周囲から「良くぞ言ってくれた」と拍手喝采を浴びることで飯を食っているコメンテーターである。
 彼のような人は、「問題発言をした人をバッシングする」という行為に、ホンネ射精型オナニーが興隆する以前の時代を髣髴し、無条件に嫌悪感を抱くのであろう。
 それ以前は社会的良識と戦後民主主義的な進歩主義による強迫観念が支配していた。良識派は「人が不愉快になることは言わない」ということを道徳的に主張し、進歩派は民主主義や男女平等、人権といった新しい価値観に基づかない旧来の発言をする人たちを後進的という脅迫観念を与えることで支配した。
 80年代から90年代前半にかけて、近隣諸国を刺激する発言をした大臣の首が何度となく飛んだ。「近隣諸国の人々が不愉快になることは言うべきでない」という良識が支配していた時代である。
 勝谷のような右派は、この時代の空気に抵抗してきた。この支配の打破がゲーム化したのが2ちゃんねるであり、それがオナニー装置として発達した。
 倖田來未バッシングに限らず、亀田兄弟バッシングなどを見ると、良識派の支配に復した気配もする。