国旗・国歌問題 実りのないカタルシスゲームの末路

 国旗国歌法制定や教育基本法改正以降、教育現場や公の場で国旗掲揚・国歌斉唱を推進する動きが広がっている。現場の公務員はお上の通達を事務的にこなしているだけなのであろうが、そもそも何のために行う施策なのか目的を見失ってしまっているような気がする。
 結論から言うと、保守系政治家の自己満足+コアな支持者向けのパフォーマンスというベクトルと、政治家に教育問題に関心を持ってもらって教育予算を多く確保したい官僚組織のベクトルの合力によって推進されていると言っていいだろう。
 困ったことに、保守系政治家やそのコアの支持者は、既に多くの現場でより多くの国旗が掲揚され、より多く国歌が斉唱されることに関心を持つのでなく、国旗・国歌に反対する勢力を公権力によって成敗して欲しいということにより多くの関心を持っているような気がする。反対勢力が罰せられることにカタルシスを得る一種のゲーム参加の感覚になってしまっている。
 ゲームと言えば、国旗・国歌に反対する勢力は最初からゲームに参加している。公権力に反抗することが一種のゲームイベントへの参加であり、公権力による弾圧が厳しければ厳しいほど、ゲームは楽しく、弾圧の犠牲者は英雄扱いされるのである。
 対立しているはずの権力側と反対勢力が、実は利害を共にして、ゲーム化を加速化させているのであるから、そもそも問題解決などする訳がないのである。
 この問題で冷静かつ適切な判断ができるのは天皇陛下だけかも知れない。天皇陛下は純粋に、誰もがわだかまりなく自然に国旗や国歌に敬愛の念を抱くような時代が訪れることを望んでいたのであろう。ところが2004年当時東京都教育委員であった米長邦雄氏は、天皇陛下に「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と話し、「やはり、強制になるということではないことが望ましい」と陛下に指摘されてしまった。
 石原都政下の教育行政も、結局は為政者の自己満足+コアな支持者向けのパフォーマンスに過ぎないということを見抜かれていたのであろう。結局は生徒児童に国旗や国歌に敬愛の念を抱くような環境を作るのが目的でなく、反抗者の弾圧ゲームの方が楽しくなってしまっているのである。
 そんな日の丸・君が代ごっこは未だに続いているようだ。

 まあ都教育委員会は根津公子教諭を解雇しなかっただけ、少しは賢かったかも知れない。根津公子教諭は反逆のヒロインとしてゲームに参加しており、公権力によって重い処分を下されれば下されるほど英雄としての価値が上がるのである。保守派の中では、この教諭が解雇されることを期待している人が多かったが、それもまたサヨク弾圧にカタルシスを得るゲームに参加しているだけである。
 55年体制の頃は保守は現実的でクールな大人。革新は原理原則に固執する子どもだった。ゲームが始まっても、大人の保守がつまらないゲームを止めて、現実的な話に戻す知恵があった。また革新側も現場は熱かったが、リーダーたちはいわゆる労働貴族で、末端には戦っている姿勢を見せながらも、テーブルの下で権力と握手して実利を勝ち取る英知があった。
 最近はみんな劣化してしまい、実りのない自己満足ゲームを繰り返すだけになってしまった。