毅然たる態度へのシンパシー

 私が大嫌いな言葉が3つある。一つは「自己責任」もう一つが「毅然たる態度」もう一つは「感動をありがとう」である。前者2つはいわゆるネオリベラリズムの精神的支柱となった言葉だ。
今でこそ、ネオリベラリズムを疑問視する人が増え、何が何でも自己責任に帰依させる言説に違和感が持たれるようになってきたが、「毅然たる態度」に対するシンパシーは相変わらずのような気がする。
庶民が毅然たる態度に対してシンパシーを抱くのは一種の病理で、自分の弱さの裏返しである。主張できない人ほど、はっきりモノを言う強い人間に憧れるものだ。
もちろん「毅然たる態度」そのものが即弊害になる訳ではないが、外交や社会保障の分野でその弊害を見ることが出来る。外交分野では何の成果がなくても、とにかく強気に自己主張することが目的、つまり外交なのに内政向けパフォーマンスに利用され、本来の外交成果がないがしろにされることがある。社会保障では、反福祉イデオロギーに利用される点である。ごく特異な社会保障費の不正受給や受益者負担金の滞納問題をことさら誇張し、毅然たる態度を取る冷酷な行政官が拍手喝采され、福祉削減に対する地ならしが行われることである。
ネオリベラリストは自己のイデオロギー実現のために、この大衆心理を巧みに利用してきた。
ただ、「毅然たる態度」は必ずしも右派イデオロギーの占有物ではない。かつては社会党土井たか子委員長の「ダメなものはダメ」という一言に多くの人が共感を抱いた。当時の保守政治はナーナーで机の下で予定調和的にモノが決まる世界で、そういう政治にイライラしている庶民が多かったのだ。
ただ今では「毅然たる態度」は右派政治家の占有物のようなもので、今後も毅然たる態度で庶民を共感に巻き込む為政者は現われ続けるであろう。