社会は若者に期待しているのか? ―若者は消費してはいけない―

 正社員と派遣社員格差是正に関する議論の中で、同一労働、同一賃金という基本原則を受け入れるのが労働側も含めてコンセンサスになりつつある。その中で既に崩壊しつつある年功序列賃金の解体も本格的に進むであろう。特に年齢や経験による労働付加価値の少ない専門職と非熟練ブルーカラーの間で賃金のフラット化更に進行するはずである。
 被雇用者は同じ企業の同じ職種に長くいても昇給は期待できず、スキルアップをするかよりよい条件のいい企業に転職しない限り賃金が上がらないことになる。
 そもそも日本の労働慣習は極めて社会的であった。労働の価値よりその年齢で必要なコストを企業が支払うことが労働者のニーズに合致していて、年功序列賃金が是認されてきた。
 多くの人が若い時期は独身で生活コストも低いので、労働付加価値に対して低い給料であっても不平を言わず、学齢期の子どもを抱えた中年社員が実際には働きが悪くても、あの人は大変だからと高給を受給することを是認してきた。つまり企業が生活コストの再分配機能を担い、そのシステムを労働者側も是認してきたあのである
 年齢間の収入がフラット化した場合、我々は比較的若いうちから高給を得るチャンスが期待できる一方、学齢期の子どもを抱え最も生活コストのかかる時期に収入が期待できなくなるリスクを同時に抱える。企業が担ってきた社会コストの分配機能は国が担うか、自己責任に帰すか何れかを選択しなければならない。
 国が担う場合、教育費を無料化したり、子どもがいる世帯の税負担を低減化するなどの社会政策を充実する方法があるが、どうもこのような政策を掲げると「ばらまき」と批判するのが日本人の習性である*1。相変わらず都市在住のエリートホワイカラーを中心に相変わらず自己責任狂が多く、このような政策は支持されない傾向がある。
 そうなると、将来のスキルアップを絶対視しない限りは、若いうちは給料の多くを、将来結婚し子どもが出来て生活コストが増大する時に備えて貯蓄なり理財をする必要が出てくる。はらして自己責任狂人にその覚悟はあるのか?
 一方で、「若者が消費しなくなった。」という言葉を最近しつこい程耳にする。クルマや海外旅行あらゆる者が、「若者の○○離れ」という言葉で形容され、消費不振がまるで若者のせいであるかのような風潮である。
 世の中は相変わらず消費させたいのか? どう考えても、今の若者は消費を抑制して将来に備えなければならない状況に置かれていると思うのだが。いったい世の中は若者に何を期待しているのか?