そろそろ周回遅れの教育議論は止めにしよう

 私が中高生だった頃、まさに詰め込み教育、受験地獄批判花盛りで、知識偏重の教育の弊害が盛んに叫ばれた。官僚の不祥事やら、日本の国際競争力低下まで、何でもこれらの問題だとされ、教育改革が急務だとされていた。
 ところが、それがいつのまにか臨時教育審議会によりゆとり教育という方向にまとまり、89年〜99年の間に「ゆとり教育」という理念の下での教育行政が推進された。
 ところが、この答申の基づく教科書編集の結果、円周率を「3」と教えるといったデュテールな部分がセンセーショナルに報道され、「ゆとり教育批判」が展開される。ゆとり教育では「学ぶ力」を養うという理念で、子どもたちが学ぶ力を持てば、細かい知識は自習で獲得できるので、教える量は減らしても大丈夫という話であったが、やはりこれは理想論で、実際に学力低下批判にさらされ、この批判への反論はできなかった。
 ところが今度は、80年代にさんざん議論されたことは無視され、再び教科書が厚くなったというどうでもいい部分が強調され、今度は、知識量偏重の教育を復活させるベクトルが働いた。勝間和代の提言は、その批判というべきものであろう。
 
 勝間和代氏はここ30年来の茶番劇はさんざん見てきたはずなのだが、また「考える力」などと言う問題提起は今さらという感じが強い。もちろん、言っていることは正しいのだが、全く進歩しない議論を30年間やってきた総括をしないと、また空虚な教育議論を繰り返すだけである。結局勝間氏はエリートなので、エリート視点の話をしているだけという印象だ。
  教育議論は、旧制中学や旧制高校のエリート教育に幻影を抱く保守派エリートや、海外のエリート教育に幻影を抱く国際派エリートと、教育現場で「落ちこぼれ」や「いじめ」「不登校」などの問題と対峙する現場の意見の二極に分離しがちで、普通の意見がない。結局「知識詰め込み」を減らして「考える力」を重視するエリート教育派と、「教える量を減らして落ちこぼれを減らしたい」現場の意見*1が符合して「ゆとり教育」という方向感になったのだろう。

 日本の戦後教育の特徴は、非エリート層に対してもかなり高いレベルの教育を行ったという特徴があり、これによって底の厚い中庸な学力を持った国民を多く排出し、これが高度経済成長の原動力になった。恐らくこの層の学力が下がってしまったことで「ゆとり教育批判」が起きているのだろう。まずはこれに一定の評価を与えた上で「詰め込み教育」の問題提起をするべきではないだろうか。
  私の私見だが、多少詰め込みの教育はエリート層と底辺層以外の普通の学力層ではそれなりに有効で、この層においてもちろん考える力を養う教育プログラムもあるのは理想だが、限られた授業時間で必用な知識を教える時間を削ってまで優先すべきことではないと思う。
 一方、エリート教育において、戦後の教育改革で「非エリート層と同じ土俵で知識がより豊富な人間」程度のクオリティーにしかならず、天才や真のエリートがなかなか育たない結果になった。基本的知識を教える次の段階で、末梢な知識を教えるのに時間を割くことを優先すべきでなく、勝間氏の言うように「考える力」を養うのはよいことだろう。
 底辺層に対しては、基礎ができていないのに、発展的な内容を教えても仕方ない。高等学校であっても、ムリに高校のカリキュラムをこなすことを考えず、内容を絞って教える学校があっても構わない。

 ただ気になるのが社会の労働ニーズである。アメリカはエリート層と底辺層が厚く、それに適した経済モデルとしてネオリベラリズムがあったのだが、日本はそれを安易に導入したために、熟練労働者のニーズが減退し、マニュアル通りに仕事をする安い労働力へのニーズが高まった。実は学力低下による中庸な学力を保持する層の崩壊は社会ニーズにマッチしていたのであるが、ネオリベラリズムを支持しているはずの学者の中でも、なぜかこれを評価しないで学力低下を問題視する珍現象が起きた。それは元来的に低賃金労働者を肯定するネオリベラリズムへの批判を避けるため、一部の努力不足の若者が転落して貧困に喘いでいるというシナリオを描いて世論の批判をかわしたに過ぎない。
 一方グローバル化で、国際競争に晒されて収益低下に喘ぐ製造業にとって代る新たな産業の育成が叫ばれたが、アメリカが金融やIT産業に構造変化で復活した時のような人材の担い手が日本にいないという問題に直面した。そこで「真のエリート」等といった議論が沸騰した。
 ただなぜか「ゆとり教育批判」の中で、エリート教育=「詰め込み復活」みたいな議論が多い。20年前の議論の方が理に適っていたし、その点で勝間氏がネジを巻き戻したとも言える。

 以上、私の意見は学力層別に教育を差別化せよという主張なのだが、当然違和感を持つ人はいるであろう。ただ、教育議論をしている人は、明らかにエリート層や底辺層をターゲットに議論している。私は今後も「底の厚い中庸な学力を持った国民」の排出を望むが故に、敢えて差別化した議論を提言したいのである。
 ただし、ただ単にマニュアル通りに安く働く労働力を求める社会からの脱却が前提である。この前提条件なしにいくら学力向上策を売っても、受給のミスマッチが起きて、希望を失う若者が増えるだけだ。

*1:日教組の考えはここらであろう。ただここで日教組の話をすると議論が陳腐化するので割愛する。