[東日本大震災]日本は一つ 「がんばろう日本」ではなかったのか。明らかになる対立構造

最近震災後の一体感が失われているのではとの話を多く聞く。大まかに被災地の復興支援を重視する人たち(以下「復興支援派」と略す)と、放射能のリスクを危惧する人たち(以下「リスク派」と略す)の間で意識のずれが顕著になってきている。
確かに和を乱したのはリスク派のように見える。今でも「一つになろう」と言っているのは、復興支援派で、彼らの方が多数派だからだ。リスク派は少数派故に、多数派による同調圧力から逃げるしかない。よって放射能のリスクを危惧する人たちがオールジャパンの和を乱した形に見えるのだ。
 ただリスク派の名誉のために付け加えると、彼らは決して被災地を支援したくない訳ではなく、自分たちの健康を害してまで支援するのはおかしいと考え、被災地の農産物や海産物を積極的に食べたり、被災地のガレキを受け入れることに反対している。更に付け加えると、彼らは自分たちが安全ならそれでいいと考えている訳ではなく、基本的に福島県のリスクは非常に高いと考え、福島県内に残っている学童は県外に避難すべきだと考えている。
 ではなぜ震災から半年以上も経って、対立が顕著になったのであろうか。震災直後は皮肉にも国を批判することによって一つになっていた面が否めない。つまり「国が基準を明確にして、放射能を測定する体制を取らないのが悪い」という結論を同じにし、復興支援派は基準が明確になれば農作物を安心して出荷でき風評被害は収まると考え、リスク派はリスクを明らかににし、早く避難させる体制を取るべきと考えたため利害が対立することはなかった。リスク派は震災直後から「福島の子どもたちを非難させない菅総理は人殺しだ」と言っていたが、他の人たちを非難することもなく、復興支援派も政府の復興支援策はなっていないと考えていた人が多いので、ことさら違和感を覚えなかったために対立することはなかった。
 安全基準が明確になり、放射能測定の体制が徐々に整備されるに従って状況が変わってきた。福島県内のリスク派は安全基準の甘さに憤り、その中で福島県内の自治体や農業団体などが基準を甘くし、避難地域をできるだけ小さく、出荷制限される農作物をできるだけ少なくしようと政府と結託しているのではないかと疑うようになった。安全基準が明示され、計測体制もでき、ようやく風評被害から逃れ復興に歩みだそうと考えていた福島県内の主流派にとって、福島県内のリスク派は非常に目障りな存在となり、同調圧力がより強くなり、相互不信が増幅するようになった。
 福島県内で孤立したリスク派を見て、県外のリスク派が支援を始める。県外のリスク派にとっては、彼らを支援することで福島県を支援する大義を得(多くの場合、福島の子どもたちを助けるという言い方をする)、「自分たちの安全だけを考えているのでは」との呪縛から開放されることになった。同時にこれまでもっぱら国だけであった敵視の対象が福島県の主流派にも向けられるようになった。
 福島県の主流派を敵視することによって、福島の農産物を出荷する農家への同情はなくなり、リスク派は放射能リスクをより堂々と主張するようになる。
 福島県の人にとっては、堰を切ったように増えている放射能忌諱発言は「差別」に聞こえ、被害者意識を強めるという悪循環に陥っている。そして県外の復興支援派はリスク派への批判を強め、感情の対立が増幅しているのが現状ではないか。
 ではどうやったらこの対立を解消できるかは、次回触れるとする。