放射能忌諱は福島差別やいじめになるのか

 福島県の方の話を聞くと、最近福島県民は差別を受けているという被害者意識のような感情を訴える話をよく聞く。
 リスク派が、福島県に対してマイナスになる言動でも正面切って発言するようになったのは昨日のエントリーで言及した通り、福島県から避難を希望している福島県民を多数派の福島県民が批判している構図において、敵は政府や東電だけでなく、福島にありと解するようになったのが原因だろう。もちろん、ネット上の愉快犯なども相当含まれるであろうが、ここでは割愛する。
 ただリスク派もはっきり意見を主張しているだけで、福島県をいじめる意思はないはずだ。ただはっきり主張する中で、それが福島蔑視と捉えられ、福島県の人に差別と感じる可能性のあるものもなくはない。その可能性について3つのパターンを具指してみた。

  • 保守性への批判→差別

福島県内でも、母子避難をする県民が相次ぎ、県内に残った人の中でも、県内産農作物を食べない、給食を食べないといった自衛処置をする人がいる。そのような人たちに対し、県内では強い批判や同調圧力がかかっている。
 希望者だけでなくあくまで児童全員の強制疎開を求める人の意見を見ると、自分だけ疎開すると残った人に批判され、再び福島に戻った時に「あの時逃げた人」と白眼視され戻りにくくなる。強制疎開ならその心配がないというものだ。
 福島県は歴史的に強い郷土愛があり、土地を離れることへの抵抗感が強い分、離れた人に対する風当たりも強い。
 特に福島県内のリスク派を支援する県外の人は、その問題に直面しているのであるが、その中で進歩的な都会VS保守的な福島という視点で福島を蔑視してはいないか。

  • 情緒論への差別

 リスク派の間では、今年福島県で農作物の作付けを行ったことを疑問視する人が多い。福島県の農家には、東電が補償をすればいい訳で、何も放射能が含まれるリスクの高い農作物を作って、それを全国に出荷してリスクをばら撒くのが愚だという考えだ。
復興支援派の人の間では、「お金の問題じゃない。農家の人は農業をやることが生きがいで、それを奪われることの悲しみは理解できる。」とし、福島県の農産物を敢えて買って支援しようという人もいる。
一部のリスク派の言動の中に、どこか福島県の人や、それを支援しようという人たちの情緒論をバカにした臭いがあるのではないか。理性的で正しい私が、間違った情緒論を糾します的なものが。そのような言動に福島県がいじめられたという被害者意識を感じてはいないか。

  • 原発立地への批判→差別

 復興支援派の中には、福島県のガレキを県外で受け入れるべきだと考える人がいる。それに対しリスク派は福島県のガレキは福島県で処分すべきと考える。復興支援派は首都圏で使う電力のために福島が犠牲になったと理解するが、リスク派の中には、これまでさんざん補助金を貰って受益者であった点を指摘する人もいる。
 この問題は福島県内でも、今まで何の受益もなかったのに風評被害だけ受けている地域と、これまで何らかの受益を受けてきた地域との間で感情的な軋轢もあり、一部の立地自治体の首長が未だに原発の再稼動を求めている点も問題を複雑にしている。
 その中で、これまで補助金の恩恵を受けてきた自治体や住民が、未だに原発を忌諱することより地域経済のために原発を必要とするような発言をすることに対して、蔑視した感情があるのではないか。

 以上。具体的にリスク派のブログつぶやきの中から感じたことであるが、私の偏見もあるであろうから批判も承知である。更に私の中に蔑視感情があることも否定しない。特に3番目の感情については自分の中に強く感じていることを認める。