二十山親方急死

 「北海の白熊」の異名を取った元大関北天佑の二十山親方(本名・千葉勝彦)が23日正午、腎臓がんのため都内病院で急逝した。45歳の若さだった。同親方は春場所で体調を崩し、がんとの闘病生活が続いていた。なお同部屋の幕内白露山ら力士は故人の生前の遺志に従い、名古屋場所から北の湖部屋所属となる見通し。通夜は26日午後6時から、葬儀・告別式は近親者のみによる密葬で27日午前11時から、いずれも東京・墨田区二十山部屋で営まれる。
 午後4時すぎ、悲報が角界を駆け巡った。既に名古屋場所に向け名古屋入りしていた、ゆかりある親方衆らが駆け付けた。午後8時前には三保ケ関親方(元大関増位山)が、8時すぎには現役時代に兄弟子だった北の湖理事長(元横綱)が急きょ帰京し沈痛な表情で無言のまま部屋に入った。
 糖尿病の持病があった二十山親方は、新年からは健康のためにと、大好きな酒とたばこを断っていた。だが、春場所に多発性脳梗塞で緊急入院。その後も都内病院で、闘病生活を続けてきた。夏場所前には深刻な病状になり、面会も親族のごく近しい人だけに限られるなど予断を許さない状況だった。夏場所中には北の湖理事長が見舞い激励したが、その願いも届かず。最後は体重が100キロを切るほど衰弱していたという。
 現役時代は、左右の握力が100キロ近い怪力を武器に、右四つからの投げ、つり、寄りと多彩かつ力強い取り口で人気を集めた。横綱を期待されたが、根っからの優しい性格が災いしてか、夢は果たせなかった。現役引退後は94年に三保ケ関部屋から独立。幕内白露山を育てるなど、師匠としてこれからが嘱望されていた。
 ◆二十山勝彦(はたちやま・かつひこ)本名・千葉勝彦。1960年(昭35)8月8日、北海道室蘭市生まれ。76年に三保ケ関部屋に入門し、同年春場所初土俵。80年夏場所新十両、同年九州場所で新入幕。83年夏場所で初優勝し場所後に大関昇進貴ノ花に次ぐ史上2位タイの大関在位44場所の記録を残し90年秋場所で現役引退。94年夏場所後に三保ケ関部屋から独立し幕内白露山らを育てた。通算成績は945勝413敗47休、幕内は513勝335敗44休。優勝2回、殊勲賞2回、敢闘賞4回、技能賞1回、金星3個。得意はつり、寄り。

 北天佑は好きな力士だっただけに残念。二十山部屋も関取が出てこれからだという時期に残念である。夏場所国技館に行ったときには元気そうな姿で審判委員を務めていたのに……。
 二十山部屋の力士は北の湖部屋に移籍するそうそうだ。まあ本家の三保ヶ関部屋は親方の定年まで幾許もない状態でいずれ北の湖部屋に吸収されそうなので、妥当な判断だろう。二十山部屋出身の力士には、亡き親方のためにも、ぜひ頑張っていただきたい。