密度の濃い一元的コミュニティ内での教育訓練の必要性

 いじめ問題の処方箋として内藤朝雄氏が提言している、子どもを学校という閉鎖的で一元的なコミュニティから開放するという意見はしごく尤もな意見である。「しかと」という行為も、多元的なコミュニティ環境下においては実効性を失い「いじめ」としての効力を失う。
 ただこの提言が広く世論に受け入れられるにはハードルがある。日本では政府の政策以前の問題として、国民世論として集団社会訓練の場としての期待役割が根強い。大人たちが交通や通信の進歩により閉鎖的な地域コミュニティから開放され、会社一家主義からも開放されて多元的なコミュニティを手に入れているにもかかわらず、自分の子どもには閉鎖環境における社会集団訓練を受けさせたがっているのである。これはなぜであろう?
 大人でさえも、昔の濃いコミュニティを懐かしんだり、愛社精神を見直すような言動も復活する昨今。必ずしも多元的なコミュニティが共通の理想になっていないことも注意しなければならない。
 閉鎖的で一元的なコミュニティでしか得られない、濃い人間関係から生まれる特別な感情というものがある。人生の中でこの特別な感情を手に入れたことがある人は、この感情を大事にし、その体験を子どもにも伝えたいと思う。部活や寄宿舎、軍隊などの人間関係などがそうである。
 内藤氏の意見は、学校をすべて開放するものであるが、実際に世論に受け入れられるためには、開放されたドライな学校と、集団行動を重視する濃い学校と、選択肢を用意するのがよいのではないか。後者に適応できなければ、前者に移動できるような仕組みを考えればいい。