厳罰主義者にこれだけは言いたい

 昨今の厳罰化を求める世論には二つの側面があると思う。一つは刑罰が持つ抑止力への期待。もう一つは被害者感情への共鳴である。
 前者に関しては、交通事故など加害者が正常な人間が多い場合には期待できるが、殺人犯のような常識を逸した人間に対しては期待できないということは薄々気づいている人も多いはずだ。最近は「死刑になれる」ということ自体が殺人動機になっており、死刑の殺人事件の抑止力に期待するのは限度があることが明らかだ。また最近は、犯罪者を顕名にすることをマスコミに求める世論が強く、実名報道が増えている。恐らく、顕名にすることは社会復帰を困難にし、加害者への重い制裁になると考えている厳罰主義者が多いのであろうが、実態は逆効果で犯罪を犯すことで有名になりたいという犯罪者の虚栄心を満たすことに協力するだけである。中には両親への連帯責任を期待した逸脱した私刑欲求から、犯罪者の両親のプライバシーを暴きネットに晒す人がいる。そうでなくても、殺人犯の両親が謝罪、或いは何らかの社会的責任を負わせることを求める世論も根強い。これも、犯罪抑止力的にはナンセンスで、そもそも両親に迷惑をかけたくないという人は人など殺さない。最近はむしろ「親を困らせたい」というのが殺人の動機になっており、両親への私刑を求める世論は殺人鬼の利害に適うものである。
 いずれも厳罰主義者の発想は、軍隊や運動部の罰の発想で、対象者がまともな人間でなければ機能しないもの。そんなものを殺人犯にも適用しようと考えている想像力の低さに呆れるばかりである。ある意味殺人がミステリー小説の世界で実感がないことによる一種の平和ボケなのかも知れない。
 もっとも、いくら殺人事件において厳罰が抑止力とならないと言っても、被害者感情への共鳴から依然として厳罰を求める世論は止まないであろう。それはそれで仕方ないと思う。それでも厳罰を求めるのであれば、抑止力はないけれど、被害者感情から考えて厳罰を支持しますという認識を持った上で、抑止力からみて逆効果になるような、加害者の実名を連呼するような過剰な犯罪報道に関心を示したり、加害者の両親への私刑感情を吐露するのは今日限り止めてもらいたい。