本当は刑法の理念を受け入れていない日本人

 一昨日のエントリーで日本人が刑の威嚇、隔離効果に期待し、更生に何ら期待しなくなっているということを述べた。
 しかし、この矛盾は現代的な問題以前に、日本が刑法を受け入れた時点に原点を発するのではなかろうか?
 刑法の理念には応報刑論にしても、社会全体の応報であって、被害者による応報という意味は強調されない。刑において「行政による仇討ち代行」という側面は極めて日本的、或いは非西洋文明的なのである。
 キリスト教では「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がある。実施には犯罪被害者の犯人に対する憎しみが存在するのは人間である以上文化的、宗教的背景の如何を問わず存在するが、西洋では犯罪被害者の犯人への憎しみはあくまでも個人的感情と理解され、周囲の人間が同調的に怒りを共有するまでには至らない(実際には文化の多様化によりそうでもなくなっているのではあるが)。ましてや日本の忠臣蔵のように「仇討ち」が美化されるという可能性はほとんどない。
 そもそも日本が刑法を受け入れるにあたって、被害者感情を量刑の部分で勘案するという文明的妥協によって定着してきたのである。一種の妥協により、日本人の意識を欧化させようという動きもなければ、日本人の倫理観にあった刑法を作ろうという動きもなかったのである。江戸時代から余り変化のない刑への意識という下部構造と、西洋的刑法の理念を受け入れたインテリゲンチャという安定した構造を100年以上続けてきたのである。
 ただ、この「綻び」に関しては極めて現代的問題であると言われる。90年代以降、インターネットの普及により「下部構造の本音」というものが次々と露呈してきた。下部構造のスノビズムが結果的にインテリゲンチャの文化的支配を可能にしてきた構造が崩壊したのである。
 ただ日本人の倫理観に適った刑法制定まで理論家できる逸材は未だに現れていない。イスラム法的な不条理性を受け入れ西欧各国との関係悪化を覚悟するのであれば別だが、日本の旧来的価値観と理に適った法理論を適合させるのは極めて困難な作業なのである。現状では下部構造の本音は従来通り量刑の範囲で対応する妥協主義を続けるしかない。