ホンネ射精型オナニーの時代は終わった。−倖田來未発言にみる−

 90年代後半から昨年あたりまでは「ホンネ射精型オナニー」の時代だったと思が、最近はあまりにも酷い「ホンネ射精」に対して厳しい目が向けられるようになってきたと思う。もちろん、これが石原慎太郎の発言だったら許されたのかもという疑念はまだ拭えないのだが…。下品な言葉を使わせてもらうが、下品な行為の説明なのでご容赦願いたい。
 これは、「言ってはならない」ことや「みなが躊躇して言わないこと」をズバズバ言って、快感に浸る行為である。昔から、赤提灯などではよく見られた。「女の子はやっぱり結婚したら会社を辞めるべきだ。」とか、「女子社員なんて能力はどうでもいいから、ちゃんとかわいい子を採用して欲しいようね」とか、社内で発すことが不可能になった発言を中年社員が話しているのをよく耳にしたものだ。発言がタブー化されるほど、それを破って言葉にすることが快感になる。これはさぞ美味しい酒の肴だったに違いない。
 これが行為が一気に拡がったのがネットが発達してからだ。ネットを通じて、それまで自分だけが思っていてなかなか発信できなかった考えを、実は多くの人が共有していることに気付き、躊躇していた気持ちが一気に爆破する。ネット上で一番盛んだった「ホンネ射精型オナニー」は中国や韓国への批判である。その他、部落批判、在日批判、障害者批判、女性批判など、これまで批判してはならないとされたものを批判することが顕著になった。
 そもそも「批判してはないないもの」*1を作ったのが、戦後民主主義と進歩派知識人である。結果的にタブーを破る快感行為は、サヨク批判或いは右傾化として表層的に捕捉されることも多かった。
 また政治の世界では、石原慎太郎という歯に衣着せぬ言論が支持される政治家が誕生し、みのもんたのようにズバリモノを言う司会者が支持された。彼らの発する「外国批判」や「厳罰化」言論に「よくぞ!言ってくれた」と拍手喝采する、まさに大衆へのフェラチオサービスが行われてきたのである。
 このような状況で、「ズバズバホンネを言う行為」に対して我々が無批判になり、多くの人間が恥じらいもなく公衆の面前で射精するようになってしまった。保守派も、当初は若者によるサヨク批判は大いに結構と許容していたが、最近は「品格」を盾に眉を顰めるようになってきた。
 「ホンネ射精型オナニー」時代の最後の遺物が橋下大阪府知事で、今後はこの風潮は急速に収束するであろう。もちろんサヨクによる進歩的強迫観念が復活することもないであろうが。

*1:私はこれを進歩的脅迫観念と読んでいる。id:kechack:20050329参照